徳川家康の”影の右腕”「平岩親吉」忠義と悲哀に満ちたその苦悩の生涯をたどる【前編】 (2/2ページ)
忠義と信頼に支えられたその関係は、年月を経ても変わることはありませんでした。
家康の長男・信康の教育係に任命される親吉は、家康の長男・信康(のぶやす)の教育係としても重要な役割を担います。信康は才気にあふれ、将来を嘱望された若者でした。親吉はまるでわが子のように信康を育て、その成長を誰よりも喜んでいたといいます。
しかし、時代は非情でした。信康は、織田信長の命により、謀反の疑いで切腹を命じられてしまいます。家康自身も、信長に逆らうことはできませんでした。
親吉は、自らの命を差し出してでも信康を救いたいと願い出たと伝わっています。
「私の命と引き換えに…」
その一言に込められた思いを想像するだけで、胸が詰まります。けれど、その願いは届かず、信康はわずか二十一歳でこの世を去ります。
親吉は形見として信康の髪を受け取り、その深い悲しみのなかで謹慎生活に入ったといいます。どれほどの無念と痛みを抱えていたか、察するに余りあります。
もうひとつの辛い命令――水野信元を討つ
実は、親吉はその少し前にも重い命を受けています。それは、家康の伯父・水野信元(みずの・のぶもと)を討つよう命じられたことでした。
親吉は、信元を寺に誘い出し、討ち取ります。その後、信元の亡骸を抱きしめ、「あなたに恨みなどなかった」と、涙ながらに詫びた――そんな話が残されています。
それが本当にあったことかは定かではありません。けれど、そうあっても不思議ではない。
親吉という人物の、誠実で、人間らしく、苦しみながらも忠義を尽くす姿がそこに見える気がします。
どれほどつらい決断を背負っても、親吉は家康に背くことはありませんでした。そして家康もまた、親吉を見捨てませんでした。
親吉はただの家臣ではなく、家康にとっては人生をともに歩んだ「家族」のような存在だったのでしょう。
信じ、支え、背負い、苦しみながらも、最期まで忠義を貫いた平岩親吉。その生き方には、言葉にできない重みと、戦国の世に生きた人間の真実が、にじんでいるように思えます。
次回の【後編】に続きます。
参考
平岩親吉 天下人から絶大な信頼を得た忠臣 『日本の旅侍』 平岩親吉の悲しみと忠義 YouTube 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』(2009 世界文化社)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan