実は江戸時代の「百姓一揆」は作法やルールが決まっていた!意外な“一揆マナー”の実態 (2/4ページ)
何を百姓一揆と見なすかは、その定義については諸説ありますが、近世史研究者の中には徒党・強訴・逃散の三種類で説明している人もいます。
まず、徒党は一揆集団の結成を指します。具体的には、目的や禁止事項などを記した起請文・一揆契状を作り、神水を回し飲むことで集団が結成されました。
そして強訴は百姓が集団となって城下などに押しかけて訴願内容の実行を求めることを差します。
最後の逃散は、まさに字の如く、年貢・夫役といった百姓の務めを放棄して逃げてしまうことです。
放火はタブー前述の徒党・強訴・逃散はいずれも非合法とされる行為であり、主だった者は裁かれました。
このほか、合法的な訴願と非合法の徒党・強訴・逃散との間に位置する行為として、越訴というのもありました。本来訴えるべき役人(役所)を飛び越して、より上級の役人(役所)に訴願することです。
このように、百姓一揆とひと口に言っても権力者と対抗するためにやみくもに暴力をふるうものではなく、その実態は、訴願の要求内容を聞き入れられるように行うものだったのです。そこには一定の作法と呼ぶべき慣習がありました。
一揆集団が結成される際に作成された連判状(一揆契状)には、一揆の目的や経費の調達に関する条目のほか、規律を維持するために、飲酒の禁止、放火・盗みの禁止、蓑笠の着用などの行動統制に関わる条目が含まれていました。