敵将・秀吉も認めた!主君・柴田勝家を救うため命を賭した若武者・毛受勝照の最期【後編】 (2/3ページ)
この地をめぐる争いは、のちに秀吉が天下をおさめるきっかけとなる、運命の分かれ道でもありました。
柴田軍は、秀吉の勢いに押され、窮地に立たされていきます。ついに、勝家は覚悟を決めました。
「この命、ここで終えてこそ本望じゃ」
しかし、勝照はそれを止めます。そして、力強く、静かに言いました。
「どうか、生き延びてください。殿にはまだ、やるべきことがございます。ここは、私が行きます!」
勝照は、わずか200の兵を率いて出陣。戦場で、柴田家の旗「金の御幣」を高く掲げました。そして、大声で名乗ります。
「我こそ、柴田勝家なり!」
敵の大軍が一斉に襲いかかります。その間に、勝家は何とか北ノ庄へ撤退できました。
この戦いで、勝照は兄の茂左衛門(もざえもん)と共に、戦場で命を落とします。享年 25歳。彼の忠義は、まるで絵のように、人々の記憶に刻まれました。
敵も認めた、まっすぐな心この出来事には、敵だった秀吉も心を動かされたと言われています。戦後、秀吉は毛受兄弟の首を母親の元へ返すという、異例の計らいをしました。勝照の忠義と誠実さを、敵の将ですら認めざるを得なかった。それが、彼の生き様の重さを物語っています。
その後、毛受家の子孫は尾張徳川家に仕え、明治時代には、元の姓である水野を名乗る家もあったそうです。
毛受勝照は、大名でもなく、軍を率いる将軍でもありません。後世の歴史書に大きく載ることもないでしょう。しかし、名を残さなくても、人々の心に残った人、それが彼でした。
12歳で家を出て、25歳で命を落とすまで、彼が守りたかったのは「忠義」だけだったのかもしれません。この時代、多くの武将が歴史に名を残しました。でも、名を残さなくても、人々の心に残った人がいた。
その一人が、毛受勝照だったのです。
栄華も、領地も、記録に残る勲功もいらなかった。彼が選んだのは、「だれかのために生きる」という、ただ一つの道でした。
主君の名に恥じぬように。