卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳の謎――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳を検証【前編】

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卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳の謎――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳を検証【前編】

日本古代史における最大の謎の一つが、邪馬台国がどこに存在していたのかという問題です。しかし、この所在地をめぐる論争は江戸時代から続いていますが、いまだ確定には至っていません

しかし近年、奈良県桜井市北部の巨大遺跡である纏向(まきむく)遺跡の発掘成果により、考古学の立場からは「邪馬台国の中心地は纏向である」とする見解が有力となりつつあります。

そこで本稿では邪馬台国畿内(纏向)説として、初代女王卑弥呼と二代女王台与、および邪馬台国が畿内であるならば必然的に繋がるヤマト政権の始祖王・崇神天皇(大王)の古墳を探っていきたいと思います。

卑弥呼像(Wikipedia)

卑弥呼の没年齢は90歳?驚くべき長寿

邪馬台国の初代女王・卑弥呼が死去したのは、西暦248年頃とされています。

『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼が女王に即位した際には「すでに年、長大」とあり、このときすでに成人に達していたことがわかります。

当時は10代前半でも成人と見なされたため、即位時点で卑弥呼は少なくとも十代ではなかったと考えられます。

神埼駅北口駅前広場にある卑弥呼像

では、248年に亡くなった時の年齢はいくつだったのでしょうか。その答えを導く手がかりとなるのが、卑弥呼の在位期間です。そして、その一つのヒントが『三国史記』新羅本紀に見えます。

そこには「西暦173年、卑弥呼が新羅に使者を送った」との記事があり、仮にそのとき彼女が15歳前後であったとすれば、没年は90歳前後となる計算です。

弥生時代の平均寿命は20代半ばとされますので、卑弥呼は非常に長寿であった可能性が高いといえるでしょう。もし将来、卑弥呼の墳墓と考えられる古墳から人骨が発見されることがあれば、その年齢推定は卑弥呼研究における重要なポイントとなるはずです。

纏向遺跡は初期ヤマト政権の母体だった

邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纏向遺跡には、西暦200~300年頃に築造されたと考えられる6基の古墳「纏向石塚古墳」「纏向矢塚古墳」「ホケノ山古墳」「纏向勝山古墳」「東田大塚(ひがいだおおつか)古墳」「箸墓(はしはか)古墳」が存在します。

これらの築造年代は、まさに邪馬台国が栄えた時代と重なり、同時にヤマト政権誕生の時期とも一致します。したがって、これらの古墳は初期ヤマト政権の母体となった邪馬台国連合の首長層の王墓であった可能性が極めて高く、その中のいずれかが卑弥呼の墓である可能性も否定できません。

箸墓古墳(撮影:高野晃彰)

とりわけ注目されるのが、纏向古墳群の盟主墓と目される「箸墓古墳」です。その被葬者については、戦前に古代史家・考古学者の笠井新也氏が卑弥呼の墓であるとの説を提唱していました。この主張は当時、突飛なものとして扱われましたが、近年は邪馬台国畿内説の高まりとともに「箸墓」から新たな発見が相次ぎ、再び議論の的となっています。

そして現在では、著名な考古学者の白石太一郎氏をはじめとする研究者が、「箸墓古墳」の被葬者は卑弥呼である可能性が高いとする見解を示しています。

果たして「箸墓古墳」の主は卑弥呼なのか、それとも卑弥呼の後を継いだ二代女王・台与(とよ)なのか、あるいはヤマト政権の最初の王なのか――ここから検証してまいりましょう。

従来の古墳とは一線を画する箸墓古墳(纏向型との違い)

纏向遺跡の北部に位置する「箸墓古墳」は、全長約280メートルを誇る「箸墓型(はしはかがた)前方後円墳」です。

纏向古墳群に築かれた6基の古墳のうち、「箸墓古墳」は最終段階にあたる古墳と考えられており、それ以前の古墳群とは明らかに一線を画しています。すなわち「箸墓」には、その後に築かれていく前方後円墳に共通する、新たな重要な要素が導入されたのです。

その代表的なものが、墳丘を取り巻く周濠(しゅうごう)、そして数段にわたる墳丘を全面的に覆った葺石(ふきいし)でした。白く輝く葺石に覆われた墳丘は、見る者に神聖さを強く印象づけたことでしょう。なお、纏向古墳群の中で「箸墓」以外に葺石が確認されているのは、現時点では「ホケノ山古墳」のみとされています。

葺石を使用した「ホケノ山古墳」(撮影:高野晃彰)

こうしたことから、「箸墓」は纏向に存在した政治権力の枠内にありながら、その権威性において他の古墳を大きく凌駕していたと考えられます。この卓越した性格こそが、同古墳をして後の前方後円墳、さらには大王墓の原型と評価させる所以なのです。

箸墓古墳の規模と出土した遺物

それではここからは「箸墓古墳」の規模と構造についてさらに詳しく紹介しましょう。

全長は約280メートル後円部は5段築成で、直径155メートル高さ29メートル前方部は4段築成で、長さ125メートル幅128メートル高さ16メートル。そして、前方部は、三味線の撥のように大きく開きます。この規模は、前方後円墳としては全国で11番目の大きさです。

「箸墓」は、宮内庁が倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓として管理しているため、墳丘内の調査はできません。しかし同庁により、墳丘からは葺石の他、特殊器台形埴輪特殊円筒形埴輪特殊壺の破片が採取されています。

特殊器台・特殊壺(Wikipedia)

これらは、弥生時代後期の吉備地方に起源をもつ葬送儀礼用の供献土器であり、特殊器台の胴部には孤帯文(こたいもん)が施されています。

「箸墓古墳」が、吉備との深い関連性をもつと考えられるのは、これらの埴輪と孤帯文によるのです。

新発見により箸墓の築造年代が遡る可能性が出てきた

「箸墓」は墳丘内部の学術調査こそ行えないものの、宮内庁の管理が及ばない墳丘周辺部については発掘調査が進められています。その結果、墳丘の裾部に沿って幅約10mの周濠がめぐり、その外側には盛土による外堤が築かれ、さらにその外側に外濠がめぐっていたことが明らかになっています。

つまり、「箸墓」の墳丘は二重の濠によって囲まれていたのです。さらに後円部の西側には、葺石を施した渡土堤が築かれていました。

この付近の内濠からは、4世紀前半に属するとみられる木製の鐙が出土しています。
これは、「箸墓」が築造されてから10数年後には、馬に乗った人物が100メートル近い外濠を越え、渡土堤を通って後円部に接近していたことを物語っているのです。

「箸墓古墳」の上空写真(Wikipedia)

「箸墓」の築造年代については、従来、4世紀初頭(西暦300年初頭)と考えられてきました。ところが1995年、墳丘北西側に隣接する大池の護岸工事に伴う発掘調査で、3世紀後半の布留0式土器が出土しました。これにより、「箸墓」は西暦280年頃に築造された可能性が指摘されるようになったのです。

また、この土器の編年は前後10~15年とされており、そのため築造年代を260年頃までさかのぼると考える研究者も現れました。そうなると、卑弥呼の没年とされる248年に一層近づくことになるのです。

では【前編】はここまでとします。

【後編】では、『日本書紀』における「箸墓古墳」にまつわる記述をもとに、卑弥呼・台与・崇神天皇の墳墓について考察していきましょう。

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