悪党から天皇の忠臣へ――武将・楠木正成が貫いた忠義と美学、そして悲劇の最期 (2/4ページ)
悪党と言うと現代では、文字通り悪人を意味しますが、当時は支配体制に背く者、ないしは強い者と言う意味で使われました。悪党説を採用するならば、正成はアウトローに近い豪傑、強者(つわもの)として評価されていたと言うことですね。
いずれにしても、そうした無名の新人であった正成が乱世に躍り出たのは、彼のファンであった龍馬が生きた幕末と似た、幕府体制が弱体化した時期でした。
後醍醐天皇と運命の出会いを果たした正成、ついに武将デビュー!
正成が若い頃を過ごした鎌倉時代末期は、腐敗した幕府の政治に対する民衆や武士の不満が高まっており、各地の有力者が反乱を起こしていました。時の帝であった後醍醐天皇もそうした世を正そうと討幕を計画し、笠置山(京都府)に立て籠もります。『太平記』によると、後醍醐天皇は夢で正成を知ったと記されます。
それは、南向きに枝が伸びた大きな木の下に玉座があり、童子が後醍醐天皇のための席だと言って消えてしまうという夢でした。不思議に思った後醍醐天皇は、夢のお告げは“木”と“南”つまり“楠木”ということを意味していると悟り、寺の僧侶から正成のことを教えられ、彼を召致したのです。
後醍醐天皇に謁見した正成は喜んで笠置に参上し、いち早く駆けつけたことに対して天皇から賞賛のお言葉を頂きます。そして、後醍醐天皇の運勢を開くべく戦略を展開して戦う事を約束したのでした。元弘元年(1331年)のことです。
しかし、鎌倉幕府は大軍を率いています。