悪党から天皇の忠臣へ――武将・楠木正成が貫いた忠義と美学、そして悲劇の最期 (3/4ページ)
そうした窮地に対し、正成はどうやって立ち向かっていったのか?
退却は恥だが役に立つ!赤坂城の戦い元弘元年(1331年)、後醍醐天皇と共に挙兵した正成でしたが、彼がこもる赤坂城には幕府の大軍が殺到してきました。『太平記』によると討伐軍30万に対し、楠木家の兵士は400~500人の少人数でした。
赤坂城の戦い(大楠公一代絵巻、楠妣庵観音寺蔵)
正成は慌てず、自分は200の兵士を率いて籠城し、弟の正季(まさすえ)らに300の兵を預けて伏兵を仕掛け、幕府軍が油断したところを叩きます。他にも、城柵に仕掛けをして乗り越えようとした敵に柵を倒して石や大木を投げて圧死させる、近づいて来たら熱湯をかけてひるませるなど、工夫を凝らして幕府軍を混乱させました。
それでも敵の攻撃は止まらず、食料も尽きた正成はニセの死体でカモフラージュした上で赤坂城に放火して逃げ出します。このように敵を翻弄して、時間を稼いでから退却する正成の戦法は、戦国期に活躍した忍者の方法を先取りしていたとも言えますね。
決戦は千早城!ゲリラ戦で大軍を蹴散らす!赤坂城の戦いでは退却を余儀なくされ、後醍醐天皇も隠岐に流されてしまった正成でしたが、その翌年には再び赤坂城を奪還します。幕命で城主となっていた湯浅定仏(じょうぶつ)なる武将を、“敵の食糧輸送隊に成り済まして城内に侵入する”という奇抜な計略で捕え、湯浅らを殺さずに登用することで、難点だった人手不足も同時に解決したのです。