京都 三条大橋「土下座像」の正体は? 実は土下座ではなかった尊皇思想家・高山彦九郎の忠義心【前編】 (2/3ページ)
少年の日と出奔
1747年(延享4年)、上野国細谷村(現在の群馬県太田市)に生まれました。父は郷士の高山彦八正教。家の由来をたどると、新田義貞に仕えた高山重栄に行き着きます。
13歳のときに『太平記』を読み、強い感銘を受けました。1764年(明和元年)、18歳のときには郷里に置き文を残し、京都へ出奔。岡白駒に学んだとされますが、正式な弟子ではなく、自ら尊皇の学を求める道を選びました。
のちに江戸へ出て、儒学者・細井平洲に学びます。父の仇討ちを相談したところ、平洲にいさめられた話が伝わります。これを機に、武力ではなく学問や実践によって志を示す生き方へと傾いていきました。
江戸ではまた、蘭学者の前野良沢の家に出入りし、杉田玄白や大槻玄沢らとも親交を結びました。和歌を詠み、議論を重ね、人脈を広げていきます。
旅の始まり
やがて彦九郎は「旅の人」となります。北は津軽半島の果て、南は鹿児島まで、日本各地を歩き続けました。
1773年(安永2年)の『赤城行』では赤城神社から伊香保温泉までの旅を記し、1774年(安永3年)の『甲午春旅』では江戸から京都に向かう途上で伊勢神宮や熱田神宮に参拝しました。1790年(寛政2年)の『北行日記』では津軽半島の先端にまで至り、蝦夷地渡航を望んだことが記されています。
これらは単なる旅行記ではありません。社寺や温泉の記録にとどまらず、農村の困窮や飢饉の惨状までも書き留め、当時の社会を映し出しています。
