【豊臣兄弟!】豊臣秀吉の悪趣味を象徴?侘び寂びを裏切った「黄金の茶室」とはどんな造りだったのか (2/3ページ)
小御所にて御めにかけらせられ候て……
※『お湯殿の上の日記』天正14年(1586年)1月16日条
【意訳】関白秀吉は黄金でできた数寄座敷(茶室)を運び込み、小御所にて天皇陛下のお目にかけて……。
組立式であちこちへ移動できる茶室というのは当時(多分現代でも)珍しく、翌天正15年(1587年)10月に開催された北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)でも披露されました。
基本的には大坂城に設置されていた黄金の茶室は、文禄元年(1592年)に朝鮮征伐の前線拠点であった名護屋城へ移設されたものの、その後は再び大坂城へ戻されます。
そして歳月は流れ、慶長20年(1615年)に大坂夏の陣で豊臣家滅亡と共に焼失してしまったのでした。
ただしはっきりそうとは書かれていないため、滅亡以前に解体された可能性もないとは言えません(とは言え、滅亡時点でも潤沢な金銀を蓄えてあった豊臣家において、茶室を解体してまで金を掻き集める理由はなさそうですが……)。
『宗湛日記』に見る黄金の茶室
こうした経緯から、秀吉が造った黄金の茶室は現存していません。
果たしてどのようなものであったのかについては、博多の商人・神屋宗湛(かみや そうたん)の日記などが参考となります。
……柱は金を延て包み(金箔を張り)、敷も鴨居も同前也。