平安時代に“不動産王国”を築いたお姫さま「八条院」晩年の悲運と莫大な荘園のゆくえ【前編】 (2/3ページ)
その後、1161(応保1)年、二条天皇の「准母(じゅんぼ)」となり、院号宣下を受けて「八条院」と称しました。
后位を経ずに女院号を授けられるのは、これが初めての例であり、彼女の特別な地位がうかがえます。
ここから八条院は、単なる「皇女」ではなく、「女院」としての力を背景に活躍していくことになります。その原動力となったのが「八条院領」でした。
八条院領のはじまり
1141(永治1)年、鳥羽上皇が出家するとき、自らの荘園の一部を分け与えました。母の美福門院には9か所、そして八条院には12か所。この時点で、彼女はすでに相当の財力を手に入れていたのです。
さらに、1156(保元元)年に鳥羽上皇が亡くなると、美福門院に渡っていた荘園もすべて八条院へ。加えて、平清盛の異母弟・平頼盛や藤原長経といった有力者たちからの寄進も相次ぎました。
1176(安元2)年の作とされる「山科家古文書」によれば、その頃には八条院領はすでに、歓喜光院領17か所以上、弘誓院領6か所、智恵光院領1か所、蓮華心院領4か所、さらに女院庁の直轄地「庁分」が40か所、安楽寿院領までも加わっていたと記録されています。
これらを合わせると、八条院の所領は膨大な広がりを持っていました。彼女の居所である八条東洞院の邸宅は、平安京の中心で華やかさを誇り、まるで一つの国のような存在感を示しました。
宮廷の不動産王としての道こうして八条院は、女性でありながら宮廷社会における「不動産王」としての力を持つようになります。
次回の後編では、この八条院領がどのように政治と深く関わり、やがて日本の歴史を大きく動かしていったのか。そして八条院自身の晩年に待っていた思いがけない運命について、さらに見ていきましょう。
次回の【後編】に続きます。