名作『劔岳 点の記』は史実と違う?名峰の”初登頂”に至った者・至らなかった者は誰か? (2/4ページ)
上層部は、担当の測量手・柴崎芳太郎らを動かし、「初登頂」へと向かわせます。
しかし、剱岳を禁忌の山としていた立山宗徒の集落・芦峅寺の人々は、測量隊への人夫の提供を渋ります。
やむなく柴崎は隣の大山村を頼ると、雇い入れた人夫のなかに、天才的判断力と登山技術を持った宇治長次郎がいました。
長次郎は立山信仰に従順だったため、大きなジレンマを抱えつつ、測量隊には「氏名不詳」で参加します。それでも彼が測量隊の登頂に主導的役割を果たしたのは、小説や映画のとおりです。
「初登頂」は誰だったのか1907(明治40)年7月13日、長次郎は柴崎配下の測夫・生田信らを、頂上への登路と思われる険しい谷に導きます。しかし山頂へ続くコル(小鞍部)の手前で自身が落伍し、後は同行の仲間に託すことにしました。
大命を背負って登頂を果たした生田は、頂上で平安時代の遺品と目される錫杖の頭と鉄剣を発見して愕然とします。
確かに自分が初登を成し遂げたはずのこの難峰を、はるか遠い時代に何者かがすでに制していたのです。このあたりのドラマは、有名すぎるくらいなので説明するまでもないでしょう。