【べらぼう】逃げ出した唐来参和(山口森広)、その後どうなった?大河では描かれない戯作者の行方 (2/4ページ)

Japaaan

(大河べらぼうでは、これを「逃げ出した」ものとアレンジしたのでした)

やがて再び筆をとり、寛政5年(1793年)に黄表紙『再会親子銭独楽(めぐりあう おやこのぜにごま)』を出版します。

また寛政7年(1795年)には『善悪邪正大勘定(ぜんあくじゃしょう おおかんじょう)』を出版しました。

そして蔦重(初代)が世を去った翌寛政10年(1798年)に『家内手本用心蔵(かなでほん ようじんぐら)』と『曽我物語嘘実録(そがものがたり うそのじつろく)』を出版。これ以降、黄表紙は出していません。

いずれも御政道批判や風刺ではなく、娯楽性の強い作品となっていました。

唐来参和の生涯・武士から町人に

唐来参和『天下一面鏡梅鉢』より、治安がよくなったので戸締りの必要がなくなり、戸を壊している場面(実際は打ちこわしの風刺)。

そもそも唐来参和とは何者だったのでしょうか。

唐来参和は延享元年(1744年)に誕生。蔦重より6歳年長ですね。

本名は加藤源蔵(かとう げんぞう)。元は某高家に仕える武士であったのが、天明年間(1781〜1789年)に町人となり(理由は不明)、江戸本所松井町にある娼家・和泉屋の婿入りしたと言われます。

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