【べらぼう】逃げ出した唐来参和(山口森広)、その後どうなった?大河では描かれない戯作者の行方 (3/4ページ)

Japaaan

一説によれば、安永年間(1772〜1789年)末期から天明初頭にかけて、志水燕十(加藤虎之介)の戯作を代筆していたとか。

唐来参和の筆名で戯作を手がけたのは、天明3年(1783年)の洒落本『三教色(さんきょうしき)』から。

それから『大千世界牆の外(だいせんせかい かきねのそと。天明4・1784年)』『和唐珍解(わとうちんかい。天明5・1785年)』『莫切自根金生木(きるなのねからかねのなるき。同年)』などの作品で世を沸かせました。

更には『頼光邪魔入(らいこうのじゃまいり。同年)』『通町御江戸鼻筋(とおりちょう おえどのはなすじ。天明6・1786年)』『冠言葉七目十二支記(かぶりことばななつめのえとき。寛政元・1789年)』とその筆が冴えわたります。

そして『天下一面鏡梅鉢』でお咎めを受け……これで一巡しました。

狂歌師「質草少々」としても活躍

唐来参和『再会親子銭独楽』表紙。

戯作者として活躍した唐来参和は、劇中でも描かれていた通り狂歌師としても才能を現します。

大田南畝(桐谷健太)に弟子入りして、質草少々(しちぐさ しょうしょう)の狂名を授かりました。

質草とは質屋に預け入れる品物で、それが少ししかないことを意味しています。そして深草少将(ふかくさのしょうしょう)をもじったのでしょう。

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