昭和期に甲子園で起きた悲劇──5千人が押し寄せた「知られざる群集事故」とは?
五千人の群集
誰もが知っている、兵庫県西宮市甲子園町にある阪神甲子園球場では、昭和期に大きな群集事故が起きています。今回は、その中でも被害が大きかった二つの重大事例を取り上げます。
まず1979年3月29日の事故から見ていきましょう。この日は春休み中で、選抜高校野球大会の三日目。優勝候補四校が揃うということもあり、超満員が予想されていました。
午前5時頃には既に約5,000人が内野入場券を求めて国道43号高架下の広場に集結していました。その後も人数は急激に増加し、午前6時半頃には広場は群集であふれかえる状態となっています。
しかし、この時現場にいた警備担当者は数名に過ぎませんでした。本来この日の警備要員は警察官・球場職員・警備員・学生アルバイトなど合計約270人が予定されていたのですが、大半は午前7時30分以後の配置だったのです。
入場券発売窓口は二か所で、行列が横に広がっていたため、現場の警備員がハンドマイクで二列に並ぶよう呼びかけました。
この呼びかけを聞いた前方の群集が押し合いを始めました。
ところが後方では警備員の声など聞こえず、前方の騒ぎを入場券発売開始と勘違いして窓口へ殺到。高架下にいた群集のほとんどが参加して大混乱となったのです。
事故の発生午前6時50分頃、現場にいた人はこう証言しています。
「身体が浮き上がって、足は地面から離れ、下に落ちた物、水筒、カメラなどがあるとそれに足を乗せて息をつくという状態で、高架下の広場から窓口までの広い範囲で悲鳴や叫び声が響いた」
そして午前7時10分頃、転倒が発生しました。5番と6番窓口の左手、内野指定席入口付近で、群集の塊がいきなり陥没して「低くなった」のです。そこを中心に、すり鉢のような形で周囲の人が倒れ込んでいきました。
この、群集が崩壊するさまは、2001年の明石市の歩道橋で起きた「群集雪崩」を連想させますね。
当時の警備員はこう話しています。
「発売口前に柵があったが、その付近で押し合いになり25人くらいが将棋倒しとなった。うち5~6人が下敷きになり、『助けて』『死にそう』との悲鳴が聞こえた。柵の前にあった売り場表示のポールも根元から折れた」
転倒した人たちは他の来場者や警備員によって引き出され、午前7時30分頃にようやく救急車が到着。サイレンの音で群集の押す力も弱まり、同40分頃に入場券発売が開始されました。
この事故で小学5年生と6年生の男児2名が死亡、負傷者は3名となりました。
アイドルイベントでも…次に1983年6月4日の事故です。この日は「第8回ABCヤングアイドル野球大会」が開催されていました。主催は大阪朝日放送で、たのきんトリオやシブがき隊、明石家さんまら若手落語家などが出場する豪華イベントでした。
イベント開催中は何事もなく進行しましたが、問題はその後です。ゲーム終了後、出場者が球場外に出てくるのを約1万人の若者(その多くは十代の少女たち)が待ち伏せしていたのです。
その中で「近くのライトバンにタレントが乗ってるらしい」という情報が飛び交います。
これはデマでした。しかし少女たちはこれを信じ、当のライトバンを目指して球場前の阪神高速道路高架下の広場へ殺到。午後7時、将棋倒しが発生し20名が押し倒されました。
この事故により後日女子高生1名が死亡、9名が負傷しています。
甲子園球場ではさらに1999年4月24日にも、プロ野球の阪神読売戦で2名死亡、47名重軽傷という事故が発生しているという記録があります。
これら一連の事故を見ると、警備体制の不備と群集心理の危険性が浮き彫りになります。大規模な群集管理の難しさを物語る事例といえるでしょう。
参考資料:事故災害研究室
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan