”幕末”はペリー来航以前から始まっていた!泰平の世を揺るがした「内憂外患」とは? (3/4ページ)
しかし、両国の対立を憂えた日本、ロシアの現地関係者、とくに返還された嘉兵衛の努力でゴローウニンも釈放され、この事件後、ロシアと幕府の関係は改善されました。
このあたりの緊張感はかなりのもので、もしも当時ナポレオンが台頭していなければ、ロシアは一気に極東アジアに南下し、圧倒的な軍事力で、北海道はもちろん日本列島を支配下に置き、今ごろ日本はロシアのサハリン州の一部になっていたかもしれません。
「外患」は長崎でも起こりました。フェートン号事件です。
19世紀初めはナポレオンが大陸支配を進めていた時期です。ナポレオンがオランダを征服すると、イギリスは、オランダが支配していたアジア各地の植民地の拠点を奪える好機ととらえました。
こうしてイギリスの軍艦フェートン号がオランダ商船を拿捕しようと、長崎の出島に侵入し、オランダ商館員を人質として燃料(薪)と水、食料を要求して退去するという事件が起こったのです。
これをきっかけに幕府は、白河藩・会津藩に江戸湾の防備を命じ、対外強硬策に転じました。
もともと幕府は、外交・貿易上の「四つの口」(長崎・対馬・琉球・蝦夷)を中心とする外交秩序を保ってきましたが、この枠組みにとらわれないロシアとイギリスの進出に警戒心を強めることになりました。
このように、ペリー来航以前から幕府は諸外国との対立・交渉を続けていたのです。