2026年大河【豊臣兄弟!】主人公・豊臣秀長(仲野太賀)をとりまく正室や側室、妾たちの顔ぶれ紹介 (3/6ページ)

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姑の大政所(仲)とは関係が良好だったようで、天正14年(1586年)から天正18年(1590年)にかけて、何度も一緒に春日大社へ参拝しています。

豊臣政権の屋台骨を支えていた秀長の正室として外交の機会もあり、徳川家康や毛利輝元といった大大名から贈り物を受け取ることもありました。

天正17年(1589年)に秀吉が諸大名の妻を人質にとった際は、彼女も上洛します。翌天正18年(1590年)に入ると秀長の病状が重篤化したので、たびたび平癒の祈祷を行ったそうです。

そして天正19年(1591年)に秀長が世を去ると、人々から大和大方(やまとのおおかた)と呼ばれ、出家した後は慈雲院と号しました。

同年2月に千利休の連座として大徳寺の僧・古渓宗陳(こけい そうちん)らが磔刑に処されかけた時は、大政所と共に秀吉へ助命嘆願を行い、執行を免じられています。

文禄4年(1595年)4月に婿の豊臣秀保が夭折すると秀長の家系は断絶。その所領は増田長盛(ました ながもり)に与えられ、慈雲院らは立ち去りました。

その後の居所については詳しく分かっていませんが、慶長10年(1605年)に彼女が大和国内に4村(中之庄村・窪之庄村・山村・高樋村)2,000石を知行しています。

元和年間(1615–1624年)にはこれら4村が天領(幕府の直轄領)となっているため、慈雲院はこれ以前に亡くなったのでしょう。

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