武士のはじまりは誰か?のちの武家社会の基盤を作った武将「新羅三郎・源義光」を挙げるべき理由 (2/3ページ)

Japaaan

「後三年の役」で活躍した 源義家(八幡太郎) です。

あるとき、その義家が戦で苦戦しているという知らせが京に届きます。
すると義光は――

「兄上が危ないなら行くしかない!」

と、朝廷の許可も待たずに東北へ出発。許可より実行。こういう思い切りの良さが、義光の大きな魅力です。

本来なら、朝廷にきちんと許可を得てから出陣するのが筋です。でも義光は、そんな手続きを待っていられなかったのでしょう。

「兄のために、今すぐ行く」。

そう思ったら、一気に東北へ向かってしまった。

当然ながら官職は剥がされてしまいますが、義光の生き方はいつもこんなふうに“まず動く”タイプだったのだと思います。その勢いが、やがて東国での勢力づくりにつながっていきました。

武芸も音楽もトップクラスという“異才”

戦場での腕前はもちろんですが、義光の特筆すべき点はもう一つあります。なんと 笙(しょう)という雅楽の楽器の名手 だったのです。

山中で師匠から秘曲を授けられたり、名器をめぐる逸話が残っていたりと、平安貴族顔負けの“雅の世界”にも深く関わっていました。荒々しい戦と、静かな音楽。その両方を自分の中に住まわせていたところに、義光ならではの魅力があります。

源氏のゴタゴタに巻き込まれる複雑な立場

義光の生涯は、華やかなだけではありませんでした。源氏内部では後継争いや暗殺事件が相次ぎ、義光もその渦に巻き込まれます。特に「義忠暗殺事件」では、黒幕としての義光の関与を認める説もあるようです。

この事件は、1109(天仁2)年、源義家(八幡太郎)の嫡男である 源義忠(よしただ) が、郎党によって突然殺害された事件です。義忠はまだ30代前後とされ、義家の後継者として期待されていた人物でした。その死は、源氏内部の人間関係を大きく揺るがせる“爆弾”のようなできごとでした。

結局、この事件の真相は不明です。

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