徳川幕府、威信失墜の始まり「天保の改革」――水野忠邦の失策と薩摩・長州の成功を比較 (2/5ページ)
ただ、そもそもこの天保の改革はあくまでも幕府権力の再編強化であって、国内の諸問題を直接解決するようなものではありませんでした。あくまでも「享保」「寛政」の改革を手本にした政策だったのです。
彼は大名・大奥も含めて倹約令を出し、庶民の風俗を厳しく取り締まります。飢饉で荒廃した農村を復興するため農民の出稼ぎも禁じました。
しかし、生活と風俗への厳しい統制と、一向に回復しない不景気とが重なり、人々の改革に対する不満は高まっていきました。
そしてとどめの一撃となったのが、諸藩に領地替えを命じて実現できなかったという出来事です。
当時は、川越藩が、外国からの圧力に対応するために相模湾の防備強化を担当していました。
この川越藩の財政負担を軽減しようと、幕府は川越・庄内・長岡の3藩の領地を相互に入れ替えることを命じます。しかし激しい反対にあって実現できませんでした。このことが、幕府の権威を大いに損ねる結果になったのです。
「幕末思想」の萌芽この時期は海外情勢の動乱期でした。アヘン戦争が勃発したのです。