幕末の決定的瞬間を描いた『大政奉還図』実は矛盾だらけ!あの有名絵画に潜む奇妙な違和感 (3/4ページ)
しかし、ここで物理的な問題が生じます。
黒書院の広さは約五十六畳しかありません。一方で、絵には部屋いっぱいに溢れるほどの武士たちが描かれています。これほどの人数を収容するには、九十二畳ある大広間でなければ無理があります。
しかし大広間の障壁画は松の絵であり、部屋の構造も絵とは異なります。
つまり作者である邨田丹陵は、黒書院の装飾と大広間の広さを混同したか、あるいは意図的に合成して描いた可能性が高いのです。
当時のスケジュールと照合すると…さらに、当時の正確なスケジュールを確認すると、さらに決定的な矛盾が浮かび上がってきます。
二条城に残る記録によれば、大政奉還に至る経緯は次の通りです。
①10月11日、幕府は諸藩に対して13日に登城するよう命じました。
②10月12日、慶喜は京都にいる松平容保、松平定敬ら幕府の役人たちに大政奉還の決意を伝えます。
③10月13日、二条城の大広間には集められた在京十万石以上の諸藩の重臣たちが待機していました。
しかし、ここで彼らの前に現れて諮問を行ったのは慶喜本人ではなく、老中である板倉勝静でした。
板倉が慶喜の決意書を読み上げて回覧し、それに対して藩士たちが賛同したというのが真実です。