「天保の改革」で失脚の水野忠邦、実は老中トップに返り咲いていた!異例の復活を果たした男の結末は? (3/4ページ)

Japaaan

先述のオランダ特使からの忠告をまたずとも、鎖国体制の綻びはずっと以前から課題としてありました。

一応、1825年には異国船打払令が出され、日本に来る外国船は問答無用で追い払うという方針が取られています。

しかし、1840年にアヘン戦争が起き、大国である清がイギリスに敗れました。さらに1844年には不平等な南京条約を結ばされています。

こうした情報は幕府に衝撃を与えます。強硬な態度を取り続ければ、日本も清の二の舞になるかもしれないと考えた忠邦は、方針を大転換したのです。そこで発令したのが、遭難した船には水や食料を与えるという薪水給与令でした。

国内政治では不人気で失敗続きだった忠邦ですが、この柔軟な外交判断は、将軍や幕閣から高く評価されていました。また、先述のオランダ特使もこの薪水給与令をよき政策として認めていたといいます。

現代の政治家も同じですが、昔から政治家には得意・不得意分野があったということですね。

歴史の因果

しかし、水野忠邦の復活劇は、幕府内部に新たな火種を生むことになりました。

忠邦は自分が失脚した際に関わった人々への報復人事を始め、反対派も負けじと巻き返しを図ったのです。

こうして幕府内は、政策論争以前の激しい権力闘争の場となってしまいました。

オランダ国王からの親書への対応について、忠邦は保留と問題の先送りを提案します。慎重といえば慎重ですが、決断を避けたとも言えます。

その後、忠邦は天保の改革時代の収賄疑惑を追及され、わずか一年足らずで二度目の失脚を喫しました。

この泥沼の争いの中で頭角を現したのが、当時二十五歳という若さの阿部正弘です。

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