幕末期、すでに幕府は「開国」路線を決めていた——大老・井伊直弼の独裁と見るのが誤りである理由 (1/4ページ)

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幕末期、すでに幕府は「開国」路線を決めていた——大老・井伊直弼の独裁と見るのが誤りである理由

安政の改革

幕末の歴史を見ていくと、あたかも徳川幕府はペリーと黒船の来航→慌てふためく→威圧に負けて開国を決める、という流れだったように感じられます。

言うまでもなく、鎖国体制を脱却して「開国」を決めたのは老中の井伊直弼(いいなおすけ)です。しかし実は、井伊直弼が大老になる前から、幕府はすでに開国路線を固めていました。

井伊直弼像

1850年代の幕府政治は、内政と外交の二つの課題が同時進行していました。内政は徳川家の後継問題、外交はペリー来航以降の国際情勢です。

これらが井伊直弼の大老就任前と後でどう変わったかを考えると、開国の本質が見えてきます。

ペリー来航時の将軍は12代・家慶でした。しかし来航直後に家慶が死去し、後継は病弱な13代・家定となります。

実は、家慶は一橋慶喜を後継に考えていましたが、老中の阿部正弘が家定を強く推し、将軍に就任させたのです。

天保の改革の失敗後、阿部は外交と内政の両面で積極的な政策を進めました。これを安政の改革と呼びます。

放棄されていなかった「鎖国」

ところで、この安政の改革の一環としてみなされている日米和親条約の調印は、最近の教科書では「開国」とは呼ばれていません。

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