幕末期、すでに幕府は「開国」路線を決めていた——大老・井伊直弼の独裁と見るのが誤りである理由

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幕末期、すでに幕府は「開国」路線を決めていた——大老・井伊直弼の独裁と見るのが誤りである理由

安政の改革

幕末の歴史を見ていくと、あたかも徳川幕府はペリーと黒船の来航→慌てふためく→威圧に負けて開国を決める、という流れだったように感じられます。

言うまでもなく、鎖国体制を脱却して「開国」を決めたのは老中の井伊直弼(いいなおすけ)です。しかし実は、井伊直弼が大老になる前から、幕府はすでに開国路線を固めていました。

井伊直弼像

1850年代の幕府政治は、内政と外交の二つの課題が同時進行していました。内政は徳川家の後継問題、外交はペリー来航以降の国際情勢です。

これらが井伊直弼の大老就任前と後でどう変わったかを考えると、開国の本質が見えてきます。

ペリー来航時の将軍は12代・家慶でした。しかし来航直後に家慶が死去し、後継は病弱な13代・家定となります。

実は、家慶は一橋慶喜を後継に考えていましたが、老中の阿部正弘が家定を強く推し、将軍に就任させたのです。

天保の改革の失敗後、阿部は外交と内政の両面で積極的な政策を進めました。これを安政の改革と呼びます。

放棄されていなかった「鎖国」

ところで、この安政の改革の一環としてみなされている日米和親条約の調印は、最近の教科書では「開国」とは呼ばれていません。

通商を認めていないため、先に運用されていた薪水給与令と大差ない修正にすぎなかったからです。

実際、当時の人々も、日米和親条約によって鎖国が完全放棄されたとは受け取っていませんでした。

しかし阿部正弘は、次の段階では通商開始、つまり本当の開国は避けられないと判断していたので、開国の準備を着実に進めていきます。

阿部正弘(Wikipediaより)

彼は朝廷に状況を報告し、鎖国政策の変更には朝廷の許可が必要だと考えました。また、諸大名に意見を求める異例の挙国一致体制も作りました。

さらに江戸湾に台場を築き、大船建造の禁を解くなど、海防と通商に備えた政策も実施。松平慶永・島津斉彬・伊達宗城ら開国派大名と協力し、岩瀬忠震や川路聖謨など有能な実務官僚を登用していきます。

これらの動きは、井伊直弼が登場する前に、幕府が開国路線を固めていた証拠だと言えるでしょう。

先走りによる調印

さてその後、井伊直弼が大老に就任した主な理由は、実は開国問題ではなく将軍後継問題の方でした。

そもそも大老は緊急時に置かれる役職です。井伊は譜代大名中心の幕政回復を目指し、一橋慶喜を推す勢力を抑え、家定の意向を守るために抜擢されたのです。

開国対応はその後の話です。

井伊直弼はもともと庶子扱いで家督とは無縁で、彦根藩主に就任したのも偶然です。そのためしがらみのない考えの持ち主だったものの、一方で保守的な価値観も持っていました。

教科書では「井伊直弼が勅許なく(朝廷の許可なく)通商条約を結んだ」とされがちですが、ここまで見ていくと、実際は違っており、彼はとにかく勅許なしの調印は許さないという姿勢をとっています。

大老就任後の老中会議でも勅許なしの調印に反対したのは井伊と本多忠徳だけで、先にちらっと名前を挙げた岩瀬忠震にも「勅許を得るまで時間稼ぎをせよ」と命じています。

ところが岩瀬は早期調印をもくろんでいたので、延期交渉に失敗したとしてハリスと調印してしまいました。勅許なく通商条約が結ばれたのは、開国派の幕僚が先走ったのが真相に近いのです。

岩瀬忠震(Wikipediaより)

開国は井伊直弼の独断ではなく、幕府全体の既定路線でした。阿部正弘の時代から準備が進み、井伊はその路線を引き継いだだけだったのです。

大老就任の主因は後継問題であり、あくまでも彼自身は開国については慎重派でした。

よって、よくあるように幕末政治を井伊直弼の独裁と見るのは誤りです。幕府内部の長期的な政策と複雑な権力構造を理解することが、歴史の本質に近づく鍵になります。

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参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC,Wikipedia

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