『豊臣兄弟!』での重要舞台・清洲城とは?桶狭間と清洲会議をつないだ“歴史の交差点” (2/2ページ)

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信長は約10年ここを居城とし、1562年には信長と徳川家康の同盟(清洲同盟)もこの城で結ばれました。信長は、1563年に戦に備えて小牧山城に移りました。

本能寺の変後の「清洲会議」の舞台に

本能寺の変で信長が倒れると、その家督を相続するための話し合いが行われました。これが、世に言う「清洲会議」です。清洲城には、織田信雄(のぶかつ・のぶお)が入城することになりました。改修を経て、お城は最大規模に。

また、関ヶ原の戦いにおいては、東軍の最前線として重要な軍事拠点の役割を果たしました。徳川義直の時代の清洲城下は人口60,000人規模に。朝鮮通信使の記録にも「関東の巨鎮」と書かれ、天下の名城と称えられました。

その後、1607年に徳川義直が名古屋城を築くと、200年ほど続いた清洲城はその役割を終えました。

一部は名古屋城に転用

名古屋城築城において、清洲城の建材や石垣は解体されましたが、その一部が名古屋城に転用されています。名古屋城の「清洲櫓」は、清洲城の天守を移築したものと言われています。

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