昭和の幕開けを揺るがしたマスコミの大誤報「光文事件」――昭和改元で起きた“世紀の誤報”の真相

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昭和の幕開けを揺るがしたマスコミの大誤報「光文事件」――昭和改元で起きた“世紀の誤報”の真相

光文事件とは

昭和の始まりには、今も語り継がれるスキャンダルがありました。 それが、日本のマスメディア史に大きな爪痕を残した光文事件(こうぶんじけん)です。

当時の新聞は、政府発表より一歩でも早く情報をつかむことが使命でした。

東京日日新聞(現在の毎日新聞)は、大正天皇が崩御して大正から昭和へと時代が移るその朝、他紙に先んじて号外を発行します。

1933年の東京日日新聞社の社屋(Wikipediaより)

そこに記された「光文」という二文字は、瞬く間に全国へ広がりました。そこには堂々と「新元号は光文」と書かれていたのです。

報知新聞都新聞も追随し、読売新聞萬朝報も朝刊で「光文」を報じています。

ところが、政府が正式に発表したのは言うまでもなく「昭和」でした。

これが光文事件です。この事件は、一夜にして世紀の大誤報として日本の歴史に刻まれることになりました。

では、なぜこんな誤報が起きたのか。

その背景には、当時の情報環境があります。

大正天皇の病状は厳しく管理され、宮内省と新聞社の間では情報をめぐる攻防が続いていました。

宮内省は「発表は葉山と東京で同時に行う」と新聞社に通告し、情報の流出を極端に警戒していました。記者が裏取りをする余地はほとんどなく、それは裏を返せば、わずかな情報の断片が“決定情報”として扱われる危険な状況だったのです。

「昭和」に決まっていた

さらに、光文という案が根も葉もない完全なデマだったわけではなかったのも微妙なところです。

公的記録『昭和大礼記録』によると、内閣案の五つの候補の中に「光文」が含まれていたことが確認できます。

つまり、光文は確かに候補の一つではあったのです。

しかし、元号案の作成を主導したのは宮内省であり、宮内省がまとめた第1案から第3案までのどこにも「光文」は登場しません。

一方で「昭和」はすべての案に含まれており、最初から最有力候補だったことがわかります。

この事実を裏付けるのが、枢密院議長・倉富勇三郎の日記です。

1926年12月8日、倉富は宮内大臣・一木喜徳郎と会談し、一木から「最終候補は昭和・元化・同和である」と伝えられています。

倉富勇三郎(Wikipediaより)

また、元老の西園寺公望や内大臣牧野伸顕も「第一案(昭和)が良い」と述べていたと記録されています。

この段階で、新元号は事実上「昭和」に決まっていたのでしょう。

つまり、光文事件は「光文が本命だったのに差し替えられた」という話ではなく、情報統制下で新聞が誤った断片情報を“確定情報”と誤認した結果だったと考えられます。

実際、倉富の日記にも、改元詔書の字句調整以外に元号差し替えの痕跡はありません。

もっともらしい陰謀説

では、なぜ「光文差し替え説」が広まったのか。

それは、誤報の衝撃があまりに大きかったからです。東京日日新聞では社長が辞意を表明し、最終的には編集主幹が辞任する事態にまで発展しました。

この混乱の中で、「本当は光文だったのに、新聞が先に出したから昭和に変えられた」という陰謀論が生まれたのです。

後年、NHKの番組で「光文を選んだ」と語った人物もいましたが、裏付けは乏しく、研究者の所功氏も「最終段階での差し替えはあり得ない」と明言しています。

光文事件は、情報が限られた時代に起きた典型的な誤報でした。

しかし、ここから学べることは今も変わりません。情報が断片的なときほど、人は“もっともらしい物語”に引き寄せられます。

そして、その物語は一度広まると、事実よりも強い力を持つことがあります。

昭和の幕開けを揺るがせたあ光文事件は、情報の扱いがいかに社会を動かすかを示す象徴的な出来事だったと言えるでしょう。

参考資料:
史料にみる日本の近代
現代ビジネス – 講談社
ハフポスト NEWS

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