出世と贅沢の果てに転落…秀吉に重用された豪商・呂宋助左衛門、石田三成の摘発で国外逃亡! (2/3ページ)

Japaaan

彼が歴史の表舞台に登場するのは、文禄の役のころ(1590年代前半)です。

当時、堺の商人は海外へ積極的に進出していましたが、彼はフィリピンのルソン島(現在のマニラ付近)へと渡ります。

そこで彼が目をつけたのは、現地では日用品として使われていた「茶器に適した壺」でした。

豊臣秀吉に紹介した「壺」とは

茶器一式(イメージ、フォトAC)


1594年(文禄3年)、助左衛門はルソンから持ち帰った「呂宋壺(るそんつぼ)」を、時の最高権力者・豊臣秀吉に献上します。

この頃の豊臣秀吉は、伏見城の築城と周辺の治水事業(伏見港・太閤堤)に着手し、本拠地を大坂から伏見へ移す準備を進めるなど、天下人として絶好調の時代。吉野での盛大な花見の宴を催したほか、全国的な太閤検地も継続実施するなど、支配体制を強化していました。

そんな秀吉に、助左衛門は現地では単なる安物の日用品だった壺を「茶壷」として売りつけます。現地での価値を知らない大名や茶人たちの目には、その素朴な風合いが「逸品」と映ったようです。

壺はフィリピンで作られたものではなく、多くは明(中国)からルソン経由で渡った物が多かったようです。ですので、ルソン壺は「唐物茶壺」とも称されていました。

茶色など地味な色で、どっしりとした風合い、釉薬の垂れが特徴です。

秀吉はこの壺に法外な高値をつけ、大名たちに買い取らせました。これにより、助左衛門は一夜にして巨万の富を築き、「呂宋助左衛門」と名乗るようになります。海外の土地を、名前にしてしまうのは凄いですね。

彼はその他にも蝋燭、麝香(じゃこう)、唐傘、香料などなど珍品を献上し、秀吉の保護のもと、日本屈指の豪商として成り上がっていくのです。

しかし、あまりに贅沢三昧をしたため、秀吉の不興をかうことに。

「出世と贅沢の果てに転落…秀吉に重用された豪商・呂宋助左衛門、石田三成の摘発で国外逃亡!」のページです。デイリーニュースオンラインは、呂宋助左衛門豪商商人戦国時代豊臣秀吉カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る