身ぐるみ剥がされ奴隷に…戦国時代、秀吉の北条征伐の果てに悲劇的な末路を辿った「大福御前」の生涯
血で血を洗う戦国乱世にあって、非業の死を遂げるのは、男性に限ったことではありませんでした。
今回は豊臣秀吉の小田原征伐にともなって悲劇的な末路をたどった大福御前(おふくごぜん)を紹介したいと思います。
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実名は不明ですが、ふく(福)だったと考えるのが自然です。大の字は長女を意味するものと考えられます。ただしその場合、西福御前(西に住んでいたお福?)と同じ名前になってしまいそうですが、果たしてどうだったのでしょうか。
藤田家は武蔵国天神山城(埼玉県長瀞町)を治める土豪でしたが、天文15年(1546年)の河越夜戦で北条氏康に敗れ、やがて降伏します。
氏康はまだ幼い四男の乙千代丸(後の北条氏邦)を大福御前と結婚させ、婿養子としました。
藤田の家督を譲らされた康邦は、嫡男の弥八郎(後の用土重連)を連れて用土城(埼玉県寄居町)へ移って用土氏と称し、失意の中で天文24年(1555年)に世を去ります。
大福御前は夫の氏邦と二人で天神山城に取り残され、相次いで世を去った両親の訃報に心を痛めたことでしょう。後に兄弟の重連も毒殺され、一人きりになってしまいました。
大福御前の子供たち
とは言え氏邦との夫婦仲は決して悪くなかったようで、二人の間には三人の子供が生まれています。
しかし長男の北条東国丸(とうごくまる)は天正11年(1583年)に早逝し、次男の北条亀丸(かめまる)は病弱で家督を継げなかったので、藤田家の菩提寺である正龍寺(埼玉県寄居町)で出家。鉄柱と号しました。
天正15年(1587年)に生まれた三男の北条光福丸(こうふくまる)に望みが託されたほか、生母不詳の北条庄三郎(しょうざぶろう)が生まれています。
……ということですが、大福御前は光福丸を生んだ時点で47歳。当時の感覚では相当な老齢でした。そこで近年の研究では、天文22年(1553年)生まれとする説もあるようです。
ちなみに東国丸が亡くなると、氏邦は長兄・北条氏政の次男である北条直定(なおさだ)を養子にとり、苗字を藤田から北条に戻しました。
鎌倉時代からの名族であった藤田の家名を、ただ一人で守り続ける大福御前の不安な胸中は、察するに余りあります。
北条征伐で氏邦と離別
やがて鉢形城(埼玉県寄居町)へ移り住んだ氏邦と大福御前。しかし天正18年(1590年)、鉢形城も豊臣秀吉による北条征伐の標的とされました。
鉢形城は前田利家・上杉景勝・真田昌幸・浅野長政・本多忠勝・島田利正・鳥居元忠ら35,000の軍勢に包囲されてしまいます。
対して鉢形城に立て籠もる軍勢はおよそ3,000。十倍以上の戦力差を前にしながら、それでも一ヶ月にわたり徹底抗戦し、坂東武者の意地を見せました。
「最早これまで。女子供は早く落ちよ」
開城を決断した氏邦は大福御前らを脱出させ、自らは降伏・出家しています。この時に次男の鉄柱が修行していた正龍寺の住職・天叟(てんそう)は前田利家と旧知であったため、氏邦の助命嘆願に奔走したそうです。
そして主君の北条氏直(長兄・氏政嫡男)と共に高野山へ入り、後に能登国七尾(石川県七尾市)で前田家の庇護下におかれました。
身ぐるみ剥がされ、奴隷として売り飛ばされる
命からがら鉢形城を脱出した大福御前は、故郷の天神山城を目指します。しかし道中で落ち武者狩りに遭い、必死の抵抗も虚しく、身ぐるみすべて剥がされてしまいました。
先祖伝来の文書や財物ををことごとく奪われた挙げ句、正龍寺の伝承によると大福御前は奴隷として陸奥国久之村(不詳。福島県いわき市・久之浜町か?)に売り飛ばされてしまったそうです。
奴婢として大福御前がどのような暮らしを送り、どのような扱いを受けていたかについて、詳しいことはわかっていません。そんな不名誉なことは記録してほしくなかったでしょう。
それからしばらくして、秩父の馬商人が馬を仕入れに赴いた際、大福御前の生存を確認しました。
行方不明になっていた大福御前が生きていたということで、氏邦の旧臣らは急いで奥州へ出向き、大福御前を連れ戻した(買い戻した?)のです。
晴れて帰郷を果たした大福御前は、氏邦が生きていると知って恋しくは思ったものの、立場上再会は難しいと考えました。
そこで大福御前は正龍寺で出家して宗栄尼(そうえいに)と号し、北条主従の菩提を弔う暮らしを送ります。
大福御前が世を去ったのは文禄2年(1593年)5月10日。自害したと言われていますが、はっきりしたことは分かっていません。
遺された希望は
晩年の大福御前にとって、最後の希望は光福丸の無事と幸福でした。
天下一統を果たした秀吉は「光福丸が元服した暁には十万石を与えよう」と約束したと言います。鎌倉時代以来の名族に対する配慮でしょうか。
しかし慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、翌慶長4年(1599年)には光福丸も元服前に亡くなってしまいました。
正龍寺の伝承によると、旧名族が復活すると関東統治の妨げになる、と判断した徳川家康によって毒殺されたと言います。
なお慶長2年(1597年)に氏邦が世を去ると、前田利家はそれまで喝食(かつじき。寺に仕える稚児)となっていた北条庄三郎を召し出して元服させ、北条采女(うねめ)と改名させました。
そして氏邦の家督と遺領1,000石(前田家からの捨扶持)を受け継がせ、自身の姪孫(甥・前田利益女)を娶らせます。氏邦の家系は采女の子・北条主殿介(とのものすけ)の代まで続いたということです。
終わりに
北条氏邦・大福御前の墓(画像:Wikipedia/撮影:ローランドピアノ氏)
今回は北条氏邦の正室・大福御前について、その生涯をたどってきました。
実家を脅かされて秀吉に攻められ、落ち武者狩りに遭って奴婢として売り飛ばされ……そして最期は自害という悲劇的の連続だったと言えるでしょう。
相次ぐ戦乱の中で、こうした悲劇は日常的に繰り広げられており、改めて平和の尊さが感じられます。
※参考文献:
黒田基樹『戦国 北条一族』新人物往来社、2005年9月 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年6月 黒田基樹『戦国大名の新研究2 北条氏康とその時代』戎光祥出版、2021年7月 火坂雅志『戦国を生きた姫君たち』KADOKAWA、2016年9月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


