色道は紳士の作法?明治時代、初代総理・伊藤博文の激しい女遊びが“乱れ”扱いされなかった理由
「生活の乱れ」ではない
明治時代あたりは、地位のある男性の女性関係についてはとても「ゆるい」時代でした。
当時の政治家や財界人の多くは女遊びをしていましたが、それは「男の楽しみ」として受け入れられていたのです。そうした状況に厳しい目を向けたのはごく少数派で、福沢諭吉くらいでしょう。
そんな時代の空気を象徴する人物が、初代総理大臣の伊藤博文です。
彼の女好きは当時も今も有名ですが、伊藤は自ら「予は寡欲で、貯蓄を知らぬ。公務の余暇に芸妓を相手にするのが楽しみ」と語り、女遊びを隠すどころか堂々と公言していました。
この奔放さは明治天皇から注意されるほどで、「いい加減にしなさい」とたしなめられた逸話が残っています。
明治天皇も怒るレベル!日本の初代総理大臣・伊藤博文の女遊びが激しすぎたそれでも伊藤は天皇に拝謁する時でさえ芸者を連れて行ったという記録があり、女遊びは彼の生活の一部でした。
しかしここで重要なのは、伊藤の女遊びが「生活の乱れ」ではなく、当時の価値観の中ではむしろ紳士的で誠実なふるまいとして受け止められていた点です。
彼は遊び相手をほぼ芸者に限定し、一般女性を巻き込むことは避けていました。
下品でもないまた、花柳界でも「偉い男に贔屓にされること」が女性の出世につながる価値観があり、伊藤との関係はむしろ名誉とされていました。
例えば大阪の芸者・樋田千穂(小吉)は伊藤に呼ばれて小田原の邸宅・滄浪閣に滞在し、「夜はかはるがはるご用をつとめた」と記しています。
これは二人同時という意味ではなく、日替わりで相手を務めたという意味で、伊藤は決して下品なふるまいをしなかったと彼女は強調しています。
小吉は「惚れてはいなかった」と語りながらも、伊藤の悪口を聞くと腹を立て、彼を擁護しました。
彼女にとって重要だったのは、伊藤が「天下の伊藤公」であることでした。芸者の世界では、伊藤と寝たという事実は名刺代わりになり、出世の足がかりとなったのです。
さらに驚くべきことに、伊藤の正妻・梅子は芸者たちを屋敷で歓待し、彼女たちは伊藤家に顔パスで出入りできました。
当時の上流婦人は、夫の贔屓の芸者に年始の挨拶を受け、年玉を渡すほどの鷹揚さが求められていたのです。
伊藤が芸者に与えていた手当は月200円、現在の価値で約200万円に相当します。
先述の小吉などは、愛人関係が終わった後も支援され続け、新橋の料亭の女将にまでなりました。
同様に、吉原の芸者だった佐川琴も伊藤の支援で築地の待合の女将となっています。
これらの事実が示すのは、伊藤が単なる遊びではなく、相手の人生を支える責任を果たしていたという事実です。芸者たちが伊藤を悪く言わない理由は、まさにこの誠実さにありました。
懐も深い「よろしいの御前」伊藤の誠実さを象徴する逸話として、新橋の芸者・玉蝶の話があります。
彼女は床上手である一方、夜尿症という弱点を抱えていました。伊藤は時間を決めてそんな彼女を起こし、厠に連れて行ったといいます。
相手の弱点に気遣いを欠かさなかった姿勢は、芸者たちの間で語り継がれました。
また、芸者が何かをねだると伊藤は必ず「よろしい」と答えたため、「よろしいの御前」と呼ばれていました。
伊藤博文という人物は小柄な体格だったにもかかわらず大きなカリスマ性があり、他の男と並んでもひときわ存在感があったと証言されています。
現代の価値観から見れば、伊藤の夜の生活は炎上要素しかありません。しかし、当時の芸者たちが彼をまったく悪く言わず、むしろ誇りにしていたという事実は無視できないでしょう。
伊藤の女好きは単なる放埓ではなく、相手を尊重し、責任を果たし、誠実に接する紳士的な女好きでした。その懐の深さこそが、彼を「天下の伊藤公」と呼ばせた最大の理由だったのです。
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画像:Wikipedia,PhotoAC
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