日本史上屈指の“怨霊”はこうして生まれた…学問の神様・菅原道真が失脚した本当の理由
国司の腐敗という国家的危機
平安時代の後半、朝廷の財源の減少ぶりは深刻なものでした。その原因は荘園の拡大と、それ以上に深刻だった国司の腐敗です。
実はこの国司の腐敗が、かの「学問の神様」菅原道真の失脚と大きく関わっていることは、あまり教科書でも説明されません。今回はこの点を掘り下げたいと思います。
国司は地方の徴税を担当する役人ですが、有力貴族の後ろ盾を得て、徴税の一部を着服することが常態化していました。
この状況は農民が訴えても改善されません。一応、朝廷は観察使の派遣や国司の兼任制度、入京報告の義務化など、さまざまな改革を試みているのですが……。
抜本的な改革が進まなかったのは、国司が貴族の利権と結びついていたためです。
この状況に立ち向かったのが菅原道真でした。道真は名門出身ではありませんでしたが、宇多天皇の信頼を得て右大臣にまで昇進するほどの秀才でした。
道真はその宇多上皇の命を受け、寛平の改革を指揮します。この改革は、農民・国司・貴族が結託した脱税スキームを断ち切り、清廉な徴税体制を取り戻すことを目的としていました。
つまり、道真は朝廷の財政を立て直すために、利権の核心に手を入れたのです。
名門貴族の致命傷道真の改革が狙ったのは、京都の名門貴族と悪徳国司、そして富裕農民が結びついた脱税ネットワークです。
貴族が後ろ盾となり、農民が公地を勝手に寄進し、国司が賄賂で黙認することで荘園は拡大し続けていたわけですが、これにより朝廷の税収は激減し、国の財政は危機的状況に陥っていました。
宇多上皇はこの悪弊を断ち切るため、名門ではない道真を改革担当者に指名したのです。
道真はこのように利害関係のない立場から、国司の監査強化や徴税の適正化を進めようと試みます。
実際、この改革は名門貴族たちにとって致命的なものでした。道真の改革は国司の腐敗と同時に自分たちの富の源泉を揺るがすものだったのです。
そこで宇多上皇が政治から手を引いた隙を突き、藤原時平ら名門貴族は結託して道真を失脚させます。
昌泰四年、道真は無実の罪で大宰府へ左遷され、そのまま帰京することなく亡くなりました。
道真は、一般的によく言われるように単なる嫉妬でこのような目に遭ったのではなく、利権を守るための政治的陰謀によって陥れられたのです。
利権拡大と怨霊さて、道真が失脚した後はどうなったのでしょうか。朝廷は国司の腐敗を止めるどころか、逆に中間搾取を公認する方向へと舵を切っていきました。
朝廷は、一定額の税収さえ確保できれば、それ以上の徴収分は国司の取り分としてよいという制度を導入したのです。
これは財源確保のための苦肉の策でしたが、農民にとっては負担増でしかありませんでした。
こうなると国司はやりたい放題です。規定以上の税を取り立て、農民は税を減らしてもらうために賄賂を渡すようになり、荘園化はさらに加速しました。
この構造は、のちに藤原道長らが賄賂によって巨額の富を築く土台にもなりました。つまり、菅原道真が止めようとした腐敗は、彼の失脚によってむしろ強化されてしまったのです。
とはいえ道真の死後、藤原時平らは次々に不審死を遂げ、ご存じの通り菅原道真の祟りとして恐れられます。
道真の霊は、日本史上屈指の怨霊のひとつとして語り継がれていったわけです。このことは、当時の人々が道真に対する仕打ちをどれほど後ろめたく感じていたかを物語っていると言えるでしょう。
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大村大次郎『脱税の日本史』宝島社、2024年
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