大河『豊臣兄弟!』では描かれない?浅井長政への忠義を貫き通した戦国武将・赤尾清綱の壮絶な最期 (2/3ページ)
赤尾家はもともと近江の大名である京極氏に仕えていました。しかし時勢によって浅井亮政(すけまさ。長政の祖父)に仕えます。
時は流れて浅井久政(榎本孝明)の代になると、長政に家督を譲らせるべくクーデターを企てました。
久政が城から出た隙を見計らい、遠藤直経(伊礼彼方)らとともに小谷城を占領したのです。
渋々ながら長政への家督承継を認めさせ、長政の下で浅井家の舵取りに参画していきました。
ただし既に高齢となっていたため、清綱は最前線ではなく顧問的な存在となっていたようです。
越前の朝倉と南近江の六角に挟まれる中、清綱は朝倉との連携を推進し、六角との対抗姿勢を打ち出しました。
果たしてこの決断が最善だったのか……ともあれ清綱は、長政より厚く信頼されていたようです。
最期まで信頼に応える
清綱に対する信頼の厚さを示すエピソードとして、例えば浅井氏の本拠地である小谷城には「赤尾曲輪(〜ぐるわ)」と呼ばれる防衛拠点がありました。
清綱はここに館を与えられ、常に主君の側近くでお守りしていたのです。
普通の家臣は城外に館を持ち、城に詰めるのは有事に限られていました。もし城内で謀叛を起こされてはたまりませんからね。
長政は「清綱は決して謀叛など起こさない、いつも側で助言し、いざ有事は守ってほしい」と期待していたのでしょう。
清綱はその期待に最期まで応え続け、天正元年(1573年)9月1日に小谷城が攻め落とされると、織田信長(小栗旬)の面前で切腹して果てたのでした。
享年60歳。