『豊臣兄弟!』大口を叩いた“嫌なヤツ”のその後…武将・朝倉景健(重岡漠)がたどった哀れな最期 (2/4ページ)

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姉川以後も奮戦

朝倉義景。歌川国芳「太平記英勇傳 浅久良左エ門太夫義兼」

朝倉景健は生年不詳、朝倉景隆(かげたか)の子として誕生します。

景隆の家は朝倉一門におけるナンバー3(惣領家除く)の地位を占めており、かなりの名門でした。

※ナンバー1は朝倉景鏡(池内万作)の大野郡司家、ナンバー2は朝倉景紀(かげのり)らの敦賀郡司家となります。

元服して通称を孫三郎(まごさぶろう)と名乗り、元亀元年(1570年)ごろに家督を継承しました。

その直後に織田信長(小栗旬)が越前へ侵攻してくると、これを防ぐべく戦陣に臨みます。

また元亀元年(1570年)6月の姉川合戦では朝倉軍の総大将として指揮をとりますが、劇中で描かれた通り敗北を喫しました。

しかし負けてばかりではありません。同年9月の下坂本合戦において織田軍の森可成(水橋研二)や織田信治(のぶはる。信長弟)ら750名を討ち取る戦果を上げています。

天正元年(1573年)8月の刀根坂合戦でも武勇を奮い、窮地の朝倉義景(鶴見辰吾)を越前へ落ち延びさせることに成功しました。

やがて朝倉景鏡の謀叛によって義景が自刃すると、景健は信長に降伏します。

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