世界遺産マチュピチュに“村をつくった日本人”がいた!知られざる野内与吉の生涯 (2/3ページ)
さらに水力を利用して発電を行い、明かりを確保します。畑も開き、作物を育てられる環境を整えました。また、温泉を見つけ、生活資源として活用しています。
これらは誰かに指示されたものではなく、生活のために必要だったからこそ行われたものでした。それでも、一人でここまでやるのは簡単なことではなかったはずです。とはいえ、一人の人間が、これだけのことを考え、実行に起すことが、そもそも凄いことだと思いませんか?
こうして、与吉が働きかけた結果、少しずつ人が定住できる環境が整ってきました。
1935年、与吉は三階建ての建物を建てます。後に「ホテル・ノウチ」といわれる建物です。この建物は単なる宿泊施設ではありませんでした。
一階は郵便局や交番として使われ、二階には村長室や裁判所の機能も置かれました。つまりこの建物は、宿泊施設であると同時に、村の中心施設としての役割を担っていたのです。当時の状況を考えると、この建物自体が行政インフラの一部だったといえます。
1941年、太平洋戦争が始まります。ペルーでも日本人は警戒の対象となり、各地で拘束などが起きていました。与吉にもその危険が及びましたが、村人たちは彼を命がけで匿いました。こういう場面に、その人がどう生きてきたかが出る気がします。長い時間をかけて築いてきた信頼が、ここで表れたのだと思います。
ようやくの一時帰国1947年、大きな土砂災害が発生し、村は大きな被害を受けました。
翌年、与吉は村長に任命されました。肩書きというより、「この人に任せるしかない」と思われた結果でした。
彼は復旧と再建に取り組み、再び人が暮らせる場所へと整えていきます。
1958年、三笠宮崇仁親王殿下がマチュピチュを訪問されました。その際、与吉の娘が殿下に花束を渡したことがきっかけとなり、日本にいる家族に彼の存在が知られることになります。
それから10年後の1968年、ようやく与吉の一時帰国が実現します。出国から52年後のことでした。当時の日本では「今世浦島」(現代の浦島太郎)と話題になりました。
与吉の最後とその後1969年、与吉は家族に見守られながら、ペルーで亡くなりました。