【豊臣兄弟!】朝倉氏ついに滅亡…それでも“再興”を諦めなかった男・朝倉景嘉の決断と末路 (2/3ページ)

Japaaan

今回はそんな一人・朝倉景嘉(あさくら かげよし)を紹介したいと思います。果たして彼の志は、どのような結末を迎えたのでしょうか。

謎多き有力家臣

朝倉義景(画像:Wikipedia)

朝倉景嘉は生年不詳、朝倉義景はじめ朝倉一族においてどのような血筋であったかもはっきりしていません。

修理亮(しゅりのすけ)の官職を称しているため、同じ修理亮を称した朝倉景冬(かげふゆ)の末裔か、その名跡を継いだものと考えられています。

永禄11年(1568年)5月に足利義昭(尾上右近)が義景を訪問した際、出迎える朝倉一門の中で景嘉は五番目に列していました。

……朝倉一門ノ面々御馬太刀ニテ謁見ノ次第一番朝倉式部大輔二番朝倉孫三郎三番朝倉次郎左衛門四番朝倉孫六郎五番同修理亮(朝倉景嘉)同掃部助同出雲守次鳥羽右馬助同次郎右衛門同小三郎向駿河守三段崎権守溝江大炊助同三郎右衛門同左近衛門也……

※『朝倉始末記』巻第四「義昭公被為成于朝倉屋形次第附御能事(義昭公、朝倉屋形に成りなさる次第、附けたり御能のこと)」

この時、朝倉景鏡率いる大野郡司家との筆頭争いに敗れた朝倉景紀(かげのり)ら敦賀郡司家は不参のため、景嘉は朝倉家中で六番目の実力者であったことがわかります。

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