あの「豊臣秀吉は猿に似ていた」エピソードは創作!?伝説の裏に秘められた“ステルス神格化”とは

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あの「豊臣秀吉は猿に似ていた」エピソードは創作!?伝説の裏に秘められた“ステルス神格化”とは
ハゲネズミか乞食か

豊臣秀吉が猿に似ていたという話はよく知られていますが、実は、歴史史料の中に、彼の外見が猿に似ていたと断言できる記述はありません。

辛うじて、宣教師のゲレイロが「動きの速さ」について記述しているものの、顔つきについては特に触れていません。

つまり、「豊臣秀吉は猿に似ていた」というエピソードは、後世の作り話である可能性が高いのです。

かと言って、では彼がイケメンだったかというとそうでもなさそうです。織田信長は秀吉のことをハゲネズミ呼ばわりしていますし、安国寺恵瓊「乞食をも仕り候」と記しています。

豊臣秀吉の座像

ここから引き出せるイメージとしては、若い頃の秀吉は痩せた体つきで、髪も薄かったのではないかということです。おそらく貧しさゆえに貧相な外見だったのではないでしょうか。

猿というよりも、野生の小動物のような姿が周囲の印象に残ったのでしょう。

縁起のいい動物

猿だのハゲネズミだのという呼び名の話だけなら笑い話で済みます。

しかし、ではなぜ「豊臣秀吉は猿と似ていた」というイメージがこれほど根強く残っているのでしょうか。その疑問は残ります。

ここで重要なのが、当時は猿というのは極めて縁起のいい動物だったということです。

ポイントは、日吉大社の神の使いが猿であるという中世の宗教観です。猿は災いを祓う縁起のいい存在とされ、吉兆の象徴でもありました。

日光東照宮の「見ざる聞かざる言わざる」

考えてみれば秀吉の幼名である「日吉丸」は本当のものではなく後世の創作とされていますが、これも日吉信仰の影響を受けた創作だった可能性は大いにあります。

豊臣秀吉=日吉丸=猿であるという図式は、そのような観点で見ると実によくできています。秀吉を神格化するために、何者かがこのような図式を作り出したのかも知れません。

成功した策略

現代から見れば当然のことですが、現実の豊臣秀吉は決して神秘的な存在ではありませんでした。

豊臣秀吉の座像

宣教師のフロイスは秀吉を「下賤の家柄」と記していますし、上井覚兼も「由来なき仁」と評しています。つまり、当時の人々が秀吉のことを徹底して低く見ていたのは間違いありません。

さらに、彼には指が六本あるという身体的特徴がありました。身分の低さ、貧相な外見、異形の身体という要素が秀吉にどれほどのコンプレックスを植え付けたかは想像に難くありません。

そうしたコンプレックスを上書きする意図でもって、秀吉自身が自らを神格化しようと「日吉丸という幼名」「猿そっくりの容貌」というエピソードを作り出した・あるいは作り出させたとすれば、これは理に適ったことです。

中世の人々にとって、ある程度の地位まで上り詰めた人物が自らを神格化しようとするのは珍しいことではありませんでした。

現に徳川家康はそうしていますし、その後の江戸時代の繁栄ぶりを見れば、天下人を神として祀るのは社会秩序を保つ方策の一環として当然のやり方だったと言えるでしょう。

駿府城公園の徳川家康像

これは想像ですが、豊臣秀吉の場合は個人的なコンプレックスを上書きする意図もあったため、可能な限り神格化の過程を見えにくくする必要があったのかも知れません。

そしてその策略は成功したのです。だからこそ「日吉丸という幼名」「猿そっくりの容貌」という(もともとは)神秘性を帯びたエピソードも、その後何百年間も創作ではなく史実として伝えられてきました。

ご存じの通り、その後豊臣家は没落し、秀吉の神格化も最終的には失敗に終わっています。しかし上記のエピソードが今でも史実としてまことしやかに語られている点を見れば、いわばこのステルス神格化の試みだけは完全にうまくいったと言えるでしょう。

 参考資料:
呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』2025年、幻冬舎新書
中公ムック『歴史と人物24 豊臣秀吉と秀長 完全ガイド』2025年、中央公論新社
TJ MOOK『歴史アドベンチャー 豊臣秀長 天下統一を成し遂げた兄弟の軌跡』2025年、宝島社
MSムック『豊臣秀長と秀吉 戦国乱世と天下統一への道』2025年、株式会社メディアソフト
画像:Wikipedia,PhotoAC

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