『豊臣兄弟!』なぜ豊臣秀吉が天下を取れたのか?〜本能寺後に光秀を圧倒した「兵力と速さ」の正体[前編] (2/4ページ)
秀吉と光秀は、織田政権下でともに方面軍を率いる軍団長という、トップクラスの重臣でした。その二人が真っ向から激突したのが山崎の戦いです。
勝敗を分けた大きな要因は、兵力と速力の差でした。兵力については諸説ありますが、最大限に見積もれば秀吉は約4万人、光秀は約1万6000人と、倍以上の差があったとされます。
この兵力差を埋めるため、光秀は山崎という狭隘な地を決戦場に選びました。しかし戦いは野戦の様相を呈し、時間の経過とともに疲弊する光秀勢に対して、秀吉勢は後続部隊を繰り出すことで最終的に圧倒します。
では、本能寺の変直後、秀吉と光秀は実際どれほどの兵力を動員できたのでしょうか。
1598年(慶長3年)の石高を基準に「1万石につき約300人を動員可能」と仮定すると以下のようになります。
●秀吉:計136万石(近江北部20・播磨35・但馬11・因幡9・伯耆東部5・備前22・美作19・備中東部9・淡路6万石)で約4万1000人。
●光秀:計92万石(近江西部10・丹波26・丹後11・大和45万石)で約2万8000人。
ところが、秀吉がほぼこの兵力を動員できたのに対し、光秀は与力大名から援軍を得られませんでした。