【豊臣兄弟!】三成を“お姫様抱っこ”の藤堂高虎!史実でも主君を惹きつける超愛され武将だった
「豊臣兄弟!」の第18話『羽柴兄弟!』。1月から始まったこの大河ドラマも三分の一が過ぎいよいよ中盤の新章へ入りました。出世した兄弟は「羽柴姓」を名乗り秀吉(池松壮亮)は長浜城の城主となり大名に。
順風満帆のようですが、竹中半兵衛(菅田将暉)が指摘したように、この兄弟の弱点は「百姓の生まれ」のため代々仕えてくれる家臣がいないこと。そこで、優秀な人材を雇用するため家臣選抜大会を行うことになりました。
そこで第18話は、次世代を担う若き家臣がたくさん登場、活気あふれる回となりました。
秀吉の家臣採用枠は3人で大会で勝ち残り採用となったのは4人、片桐且元(長友郁真)、平野長泰(西山潤)、石田三成(松本怜生)、藤堂高虎(佳久創)でした。
【豊臣兄弟!】加藤清正・福島正則・石田三成が登場!史実で見る秀吉の『最強スター家臣団』の栄光と亀裂最終的には「話し合いで決めろ」といわれ、ほかの候補の家庭事情を聞いて、自ら身を引こうとしたのが高虎だったのです。そんな性格や才能を小一郎(仲野大河)に見込まれ、“羽柴弟“初めての家臣が誕生しました。
頭抜けて体も声も態度も大きくて、とにかく目立つ藤堂高虎。彼は「転職回数が多い」「築城の名手」などで知られますが、実際どのような人だったのでしょうか。
「豊臣兄弟!」で一躍注目を集めたキャラクター性と、実際に残る逸話とを比較しつつ探ってみました。
※藤堂高虎の生涯についてはこちらの記事を参照
『豊臣兄弟!』規格外の猛将・藤堂高虎(佳久創)ついに登場!後に豊臣秀長・秀吉に仕える激動の生涯
最終試験まで残った四人だが、家臣として採用されるのは三人。(NHK大河『豊臣兄弟!』公式サイトより)
文治派の「お姫様抱っこ」シーンが話題引治2年(1557)、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)、父・藤堂虎高、母・おとらの子として誕生しました。小さな頃から体が大きく、乳母の乳だけでは足りずに複数人の女性から乳をもらったとか。
3歳くらいで餅を5〜6個もぺろりと平らげていたほどの大食感で、一説によると10代で約190㎝ほどの身長があったそうです。
戦国武将としては比較的背が高かったといわれる織田信長は約170cm、前田利家は180cmほどだったので、かなり高身長でした。
元亀元年(1570)の姉川の戦い(ドラマの第15回『姉川大合戦』で初登場)が初陣で、あのときは14歳だったそうです。戦場の中でも一際大きくて目を引いていましたよね。
演じている佳久創さんは、身長185cm体重92kgの元ラグビー選手。イメージぴったりです。秀吉の新旧家臣の宴会のときは、諸肌を脱いで立派な裸の上半身を披露してくれました。
その体格のよさを活かした『お姫様抱っこ』が今回大いに話題をさらったのです。
座禅を組み「よしというまで動いてはならぬ」と言い渡された家臣試験会場の室内に煙が蔓延し、本物の火事だと勘違いしてしまった虎高。頑なに命令を守り逃げずに座禅を組んだままの石田三成をそのまま抱え、お姫様抱っこで外に救出したシーンにはSNSが沸きました。
高虎が軽々とリフトしたのも驚きですが、持ち上げられてもまったく体が崩れず微動だにしない石田三成の体幹のすごさに驚きの声が続出。「豊臣のりくりゅう」には笑ってしまいました。
そのあと、宴会の場面で、竹中半兵衛をお姫様抱っこしたシーンには、2022年の『鎌倉殿の13人』の源義経(菅田)&弁慶(佳久)コンビ“復活”に歓喜の声も。
こういう創作や過去作品のオマージュは、大河ならではのクリエイティブの醍醐味だと思います。
軽々と持ち上げる高虎もすごいけれど体幹が崩れない三成もすごい「豊臣のりくりゅう)(NHK大河『豊臣兄弟!』公式サイトより)
「正し過ぎて周囲が理解していないだけ」と小一郎「火事だ!」と思った瞬間に三成を助け出す瞬発力、泥棒の濡れ衣を着せられ逃げるも、渡ろうとした“橋”が崩れそうなことに気がつき、後続の追手が落ちないように渡らない判断をした気遣い、建築物に対する見る目の高さ。
そして、採用試験で4人中1人は落選なので話し合いをしたとき、各々の家庭の事情を聞き「自分は降りる」と去ろうとする思いやりの深さと優しさ。高虎は、そんな魅力あふれる人間像に描かれていました。
「お前は気が短いが、いざというとき人を助けることができる男じゃ。あのときからわしはお前を家臣にしたいと思うておったのだ。」
と高虎に告げる小一郎。(「あのとき」とは橋が倒壊しそうなのを察知して、高虎が逃げるのをやめた時のこと。小一郎は町民に「橋が危険だからなんとかしてくれ」と頼まれていました。)
そして、「わしにとっての初めての家臣じゃ。よろしゅう頼むぞ。高虎!」と申し渡しました。「この藤堂高虎、身命を賭してお仕えいたしまする!」と、男泣きに咽ぶ高虎。こんな風に、自分では“どうせわかってもらえないだろう“と心の中に秘めていることを、よく観察して評価してくれたら……泣いてしまいますよね。
小一郎の「皆やつの考えについていけず腹立たしくなる。何度も主君を変えるのも無理はない。じゃが、やつのやっとることは間違うてはおらぬ。むしろ正し過ぎて、皆にそれをわかってもらえない」という人物評価も的確。
実際、どんどん奉公先を変える高虎を「堪え性がない」「飽きっぽい」「忠義心がない」などする声もあったようですが、そこだけで判断せず、細かい挙動で分析するのは、さすが「思慮深く温厚で、家臣の話をよく聞く稀代の調整役」といわれた小一郎だけあります。
血の気は多いものの、無駄に殺された(お芝居だったのですが)候補者のために怒る高虎。(NHK大河『豊臣兄弟!』公式サイトより)
20歳で17歳年上の秀長に支えた高虎史実でも、天正4年(1576)20歳のとき高虎は「豊臣秀長に300石で仕え、冠名を与右衛門に改めている」とあります(『公室年譜略』)。秀長はこの時36〜37歳くらい。かなり年齢差があるので、親のように包み込むような目でみることができたのかもしれません。
その後、1581年に但馬国の土豪を討ち3,000石の所領をもらい、鉄砲大将に任命。さらに、中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに参加して活躍します。
その後紀州征伐でも大勝利をおさめ、戦後は紀伊国粉河に5,000石を与えられるとともに、猿岡山城、和歌山城の築城の際には普請奉行に任命されました。
作業動員数は約1万人ほどのリーダーとなったのです。これは、「築城の名手」と呼ばれる高虎の初期の仕事といわれています。高虎はなぜ築城に興味を持ち、技術は誰からどう学んでいったのか……はよくわかりません。持って生まれし“ギフト“だったのか、向上心や努力の人だったのか。
和歌山城は当時の建物は現存していないものの、『和歌山城公園』として整備され多くの人が訪れる人気スポットとなっています。
図面を書き直し自腹で追加工事をする
天正14年(1586)、高虎のずば抜けた建築の才能を認めていた秀長は、聚楽第の邸内に、上洛する徳川家康をもてなす屋敷を作るため『作事奉行』に任命します。
その際に、関白となった秀吉が自ら設計した図面を渡しました。設計そのものが間違っていたわけではないのですが、高虎は、屋敷が公家風の華奢な構造だったために警備上「危うい」と気がつきます。
脆弱な箇所を強化するために、屋敷の周囲に外構えと外門の設置を考えたものの、それでは追加費用がかかってしまいます。もし、そんなことを申し出たら秀吉の不興を買い、秀長にも迷惑がかかると悩み、高虎は費用は自己負担しようと決め、設計図を書き直し工事を進めました。
出来上がった屋敷に入り、事前に知らされていた設計とは違うことに気がついた家康は高虎を問いただし、その事実を聞きました。そして、高虎の才能と気遣いと機転に大いに感動、高く評価して親交を深めていったそうです。
ただの痒み止めを「傷によく効く」と秀吉に渡す家康。この食わせ物の家康を高虎は感動させる(NHK大河『豊臣兄弟!』公式サイトより)
「あの世でも会いたい」と家康に言われ改宗天正19年(1591)に秀長が死去、高虎は一時出家して高野山入りをするも秀吉の説得で還俗し、伊予国板島(現在の宇和島市)の大名となります。そして、秀吉が死去する直前に家康に近づき、豊臣氏の家臣団の分裂に際して徳川家康側につきました。
慶長5年の関ヶ原の戦いで功績をあげ徳川家の重臣となった高虎は、江戸城改築にも尽力。そのほかにも様々な活躍をして家康に高く評価されていきます。
高虎と家康がどんどん縁を深めていくエピソードはたくさんあるのですが、やはり一番その深さを感じるのが元和2年(1616)、病の床に臥していた家康が旅立つ前に、高虎と天海僧正を枕元に呼んだときの話でしょう。
家康は、これまでの忠義に対して礼をいい「そなたは日蓮宗で、わしは天台宗と、宗派が違う。だから、あの世で会えることがないやもしれん。それがつらい」といいました。
感動した高虎は涙ながらに「あの世でも大御所様のもとでお仕えしとうございます。すぐに、私は宗旨替えをして大御所様と同じ天台宗となりまする。」と、日蓮宗から天台宗に改宗したのでした。
さらに、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」という家康の遺言に従い、天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領。東叡山寛永寺を開山しました。
境内には多くの伽藍が建立されたのですが、寛永4年(1627)その一つとして創建した神社「東照社」が『上野東照宮』の始まりです。 正保3年(1646)、朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となりました。
境内には、高虎から奉納された、唯一台座が円形の銅灯籠も残っているそうです(国指定重要文化財)
「餅」をご馳走してくれた恩を忘れず家紋に
そんな高虎のほっこり人情物語として伝わっているのが通称「まるもち三つ」の逸話」です。若い頃は主君を変え放浪していたのでお金がなかった高虎は、三河(愛知県)の餅屋で、つい店先に並んだ餅に手を伸ばし次々と平らげてしまいました。
やっとお腹がいっぱいになって、はっと気がついた高虎は餅屋の主人にお金がないことを正直に告げ謝罪します。
ところが、店の主人は高虎を叱るどころか、「あんたは立派な武士になる顔をしている。出世したら払いなさい」と、さらに餅を土産として持たせて励ましてくれましたそうです。(路銀も持たせてくれたという説も)
この恩を忘れなかった高虎は、生涯このありがたさを忘れまじと、最初の藤堂家の旗印「白もち三つ」としたそうです。(写真右)
関ヶ原の戦いの藤堂高虎・京極高知陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)右が餅の旗。wiki
最後に…秀長に感動して生涯仕えることを誓った藤堂高虎。ワイルドでやんちゃな乱暴者なので、SNSでは「蜂須賀正勝(高橋努)がおとなしく見える」と言われるほどでした。
「豊臣兄弟!」は、秀長が主人公なので死後の家康とのエピソードは描かれないかもしれません。今後、秀長とどんな関係を結んでいくのでしょうか。
史実では、高虎は秀長の周辺に結集した千利休などの文化人に影響を受け、茶湯などの伝統文化の素養を磨いたそう。あの大きな体で静かに茶湯を嗜む……そんな場面も見てみたいなと思います。
※「豊臣兄弟!」第18話の振り返り記事:
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