【豊臣兄弟!】信長に降伏するも改易・切腹…足利義昭に忠義を尽くした三淵藤英(味方良介)の悲劇的な最期 (3/3ページ)
元亀4年(1573年)7月3日に義昭が信長打倒の兵を挙げるとこれに従い、二条御所(京都市上京区)の防衛を任されました。義昭自身は槇島城(京都府宇治市)に立て籠もります。
信長何するものぞと意気込んだものの、いざ織田の大軍に包囲されると、友軍たちは全員降伏。7月12日には柴田勝家(山口馬木也)の説得によって降伏を余儀なくされました。
降伏後も伏見城(京都市伏見区)に立て籠もり、なおも抵抗を試みた藤英ですが、肝心の義昭が立て籠もる槇島城が信長の大軍に攻め落とされてしまいます。
主君がいなくては戦いに大義もなく、やむなく藤英も再び信長に降伏。織田家臣として仕えることになったのでした。
天正元年(1573年)に三好三人衆の残党である石成友通(阿部亮平)を討ち取るなど武功を挙げた藤英ですが、天正2年(1574年)にいきなり改易(所領全没収)されてしまいます。
そして明智光秀(要潤)の元へ身柄を送られ、7月6日に嫡男の三淵秋豪(あきひで)ともども切腹させられてしまったのでした。
終わりに【三淵藤英・略年表】
時期不詳 誕生 天文3年(1534年) 異母弟・細川藤孝が誕生 天文9年(1540年) 伯母・清光院の使者として鹿苑院を訪ねる(史料上の初出) 弘治4年(1558年) 足利義輝の家臣として朝廷の使者を取り次ぐ 永禄5年(1562年) 伊勢貞孝の挙兵失敗により姿を消す 永禄8年(1565年) 足利義昭に仕える 天正元年(1573年) 義昭が挙兵するも敗れ、信長に降伏する 天正2年(1574年) 改易・切腹三淵藤英には秋豪の他にも三淵光行(みつゆき)・朽木昭貞(くつき あきさだ)・朽木昭知(あきとも)・朽木昭長(あきなが)らの子がおり、それぞれに命脈をつなぎます。
第18回放送「羽柴兄弟!」時点で天正3年(1575年)ですから、藤英は既に世を去っていたのでした。
京都から追放された後も義昭はしぶとく抵抗を続けるのですが、藤英は草葉の陰から応援していたのかもしれません。
※参考文献:
金子拓『織田信長権力論』吉川弘文館、2015年4月 谷口克広『信長と将軍義昭』中央公論新社、2014年8月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan