【豊臣兄弟!】なぜ秀吉は無断撤退?その後どうなる?史実だった柴田勝家との喧嘩・信長激怒事件の結末 (4/6ページ)
総勢4万を率いて北ノ庄城(福井県福井市)から出陣した武将たちの顔ぶれは以下の通りです。
滝川一益(左近/猪塚健太) 羽柴秀吉(筑前守) 丹羽長秀(惟住五郎左衛門/池田鉄洋) 斎藤利治(新五) 氏家直昌(直元の子) 安藤守就(伊賀伊賀守/田中哲司) 稲葉良通(伊予/嶋尾康史) 不破光治(河内守) 前田利家(又左衛門/大東駿介) 佐々成政(内蔵介/白洲迅) 原長頼(彦二郎) 金森長近(五郎八) ほか若狭衆※『長家家譜』によると、このほか長谷川秀一・徳山則秀・堀秀政らが参陣しました。
加賀国(石川県南部)へと乱入した勝家一行は、添川(尾添川?)と手取川(てどりがわ)を越えて、小松村・本折村・阿多賀(安宅。ここまで小松市)・富樫(金沢市)と各地を焼き払いながら進撃します。
※北ノ庄城から向かった場合、小松市の方が手取川より手前ですが、記述に際しては時系列よりも印象(いかに川越えが大変だったか)を重視したのでしょうか。
しかし大変な苦労の末にここまでやって来たというのに、一体何を思ったのか、いきなり秀吉が軍勢を引き上げてしまいました。
『信長公記』では秀吉の振る舞いについて「御届をも不申上(もうしあげず)帰陣仕候段(きじんつかまつりそうろうだん)曲事之由(くせごとのよし)」つまり「御届を申し上げず=許可なく勝手に帰陣してしまった件は、けしからん」と非難しています。
もちろん信長だって大激怒です。『信長公記』には「被成御逆鱗(ごげきりんなされ)迷惑申され候」とあり、信長が逆鱗に触れられて激怒し、周囲が大変迷惑したことが記されていました。
さぁ、果たして秀吉はどうなってしまうのでしょうか?
一体なぜ?すぐに謹慎を解かれた秀吉……どうもなりませんでした。
信長は秀吉に謹慎を命じたものの間もなく解除され、二度目の謀叛を起こした松永久秀(竹中直人)の討伐に出陣しています。
その後も天正5年(1577年)の内に中国攻めへと出陣しており、軍令違反の戦線離脱はうやむやにされたのでした。
そもそもなぜ秀吉が勝家と喧嘩し、任務放棄までしてしまったのか?当時の史料に詳しい事情を記したものはありません。