【豊臣兄弟!】加藤清正や福島正則の陰に隠れた名将…“賤ヶ岳の七本槍” 糟屋武則がたどった生涯 (3/4ページ)
その後も秀吉に従って活躍し、天正10年(1582年)に織田信長が横死を遂げた際は、秀吉と共に明智光秀を討って仇をとります(山崎の合戦)。
やがて織田政権の主導権をめぐって秀吉と宿老の柴田勝家が対立し、天正11年(1583年)に賤ヶ岳の合戦が勃発しました。武則はここで一番槍の武功を立てて「七本槍」と謳われたのは有名です。
続く天正12年(1584年)には秀吉の前に徳川家康が立ちはだかり、ここに小牧・長久手の合戦が勃発しました。ここでは秀吉の本陣を守備していたと言います。
こうした戦歴の一方、天正14年(1586年)に京都大仏(方広寺)の作事奉行を務めたり、従五位下・内膳正に叙せられたりなど文治方面にも才能を発揮しました。
また天正15年(1587年)の九州征伐では軍船の調達を命じられ、天正18年(1590年)の北条征伐には秀吉の護衛に当たるなど、戦場では後方支援や護衛などディフェンシブな活躍が目立ちます。
武則らがしっかり守っていたからこそ、前線の武将たちは後方を気にせず戦えたことでしょう。
天下一統後も活躍するが……