『豊臣兄弟!』別所長治を破滅へ導いた男?毛利派の叔父・別所賀相と“豪勇すぎる妻”波の最期 (2/4ページ)
この時、10代で新たな当主となった別所長治を支えるため、賀相と賀相の弟・重棟(しげむね)が補佐にあたります。本来であれば、賀相と重棟が対立せずに若年の長治を支えていくのが当たり前ですが、両者の間には大きな溝ができていました。
これができた原因は、重棟が三好三人衆と戦いでの活躍を足利義昭に称賛され、別所家中での権力を高めたためです。
その状態のまま、天正5年(1577)に秀吉が播磨平定のために播磨国に入国。長治は秀吉に従い、織田の味方になりますが、翌天正6年(1578)に毛利に寝返った後に三木城に籠城しました。
寝返った原因として、秀吉が多くの別所家の城を破壊したことで発生した不満や毛利家の保護下にいた義昭による離反工作を受けていたことが挙げられます。
また、賀相主導の元、長治に寝返りを勧めたと『別所長治記』や『播磨別所記』に残っています。
特に『播磨別所記』では元凶となった賀相を、目上にへつらい口達者な人を指す佞人(ねいじん)と呼んでいます。
自害を拒否した賀相
織田に反旗を翻し籠城したものの、待っていたのは兵糧問題でした。
現状として5つの支城を攻略された上に三木城を包囲されていたので、兵糧不足になるのは目に見えていました。
賀相はこれを打破すべく天正7年(1579)に兵を率いて、秀吉のいる平井山の本陣に奇襲を仕掛けます。