石田三成が毒殺?改易から甲斐24万石へ復活した戦国武将・加藤光泰がたどった波乱万丈すぎる生涯【豊臣兄弟!】 (2/6ページ)
秀吉の家臣に加えられます。
秀吉に仕えた光泰は元亀2年(1571年)に浅井長政(中島歩)を撃退したり、天正6年(1578年)の三木城攻めに従軍したり、武功を重ねて播磨国に5千石の知行を賜わりました。
天正10年(1582年)に秀吉が明智光秀(要潤)を征伐した山崎の合戦では、敵本隊に殴り込みをかけて勝利のきっかけをもたらします。
この武功によって丹波国周山城(京都市右京区)1万5千石を賜わり、晴れて大名となりました。その後も2万石に加増され、近江国そして尾張国犬山城(愛知県犬山市)へ移ったそうです。
天正11年(1583年)に秀吉が柴田勝家(山口馬木也)を討伐した賤ヶ岳の合戦において、光泰は軍奉行を務め、翌天正12年(1584年)に秀吉が徳川家康(松下洸平)と争った小牧・長久手の合戦では犬山城を守備します。
また佐々成政(白洲迅)の討伐にも従軍し、天正13年(1585年)には美濃大垣城(岐阜県大垣市)4万石を与えられました。
改易から甲斐24万石の国主に
この時に秀吉から2万石の蔵入地を管理するよう任されていましたが、光泰はこの収益を横領したため、秀吉の逆鱗にふれてしまいます。
改易(所領を全没収)された光泰の身柄は豊臣秀長(仲野太賀)に預けられ、しばらく大和郡山城(奈良県大和郡山市)で蟄居していました。