朝ドラ「風、薫る」会津戦争で姉を失った悲劇…女学校の校長・望月勘治(関智一)のモデル・中野豊記の生涯 (2/6ページ)
江戸の会津藩士の家に生まれる
嘉永4(1851)年10月、中野豊記は江戸で会津藩士・中野平内忠順の子として生を受けました。母は孝子と伝わります。
姉はのちに会津戦争で薙刀を手に戦った中野竹子です。
父の平内は、江戸詰めの会津藩士として勤務していました。和歌や書道にも通じ、持明院流の書を教えるほどの教養を持っていたと伝わります。
そのため中野家は、武芸だけでなく、学問や書にも親しむ武家でした。豊記も幼い頃から、武家の子として必要な読み書きや漢学を学んだと考えられます。
ただし、豊記の幼少期について詳しく記した記録は多くありません。藩校日新館で学んだとされますが、具体的な在学期間や成績については詳しくは不明です。
自身の力を磨きつつ、将来を嘱望されたことは間違いありません。しかし程なくして時代は大きな転換点を迎えます。
慶応4(1868)年、旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争が勃発。会津藩は旧幕府側の中心勢力と見なされ、新政府軍の攻撃を受けます。
豊記は父・平内とともに会津若松城へ入り、籠城戦に加わったと伝わります。
一方、姉の竹子は城外で女性たちと行動し、薙刀を手に新政府軍と戦いますが銃撃を受けて戦死。後世「娘子隊」と呼ばれる女性たちの戦いのなかでも、竹子の死は会津戦争を象徴する出来事となりました。
同年9月、やがて会津若松城は開城。会津藩士たちは武器を取り上げられ、各地に身柄をを預けられました。
このとき、豊記も越後高田藩の預かりとなったとされています。敗者として高田へ送られた経験は、豊記の人生に大きな影響を与えることになるのです。