ブラタモリで注目!徳川家康はなぜ大須観音を名古屋へ移したのか?「清洲越し」と城下町建設の真実 (2/3ページ)

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慶長18(1613)年ごろには、武士や町人の居住地も定まり、現在の名古屋中心部につながる町の骨格が整いました。

清須城。織田信長の居城であり、かつては尾張国の中心であった。

美濃の大須から移された観音と文庫

大須観音の由来とその後について見てみましょう。

大須観音の正式名称は、北野山真福寺宝生院です。その起源は、尾張国中島郡長岡庄大須村、現在の岐阜県羽島市付近にあった観音堂に求められます。

14世紀ごろには能信上人が堂塔を整備し、各地の書物を書写・収集しました。これが後の「大須文庫」の基礎となります。

ところが、旧所在地は木曽三川に近く、水害を受けやすい地域でした。名古屋市の歴史的風致に関する資料では、家康が貴重な書籍や文書を木曽川の水害から守るため、慶長17(1612)年に真福寺を名古屋城下へ移したと説明されています。

大須文庫には、国宝の『古事記』写本など約1万5000点の典籍が伝わっています。寺院の移転は、信仰の場を移すだけでなく、中世以来蓄積されてきた「知」を安全な新都市へ運び込む事業でもありました。

大須観音が置かれたのは、名古屋城下の南側に形成された寺町でした。現在の大須周辺には多くの寺社が集められ、その中で大須観音は参詣者を集める中心の一つとなります。

参詣者が増えれば、食べ物や日用品を売る店、宿、見世物なども必要になります。

こうして周辺は門前町として発展し、寺の旧所在地に由来する「大須」という名で呼ばれるようになりました。

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