『豊臣兄弟!』与一郎は史実でも討死した?実際の光秀の最期など第29回「天下への道」の見どころを史実解説 (4/9ページ)

Japaaan

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外遊先の堺から命からがら本拠地の三河国へ逃げ帰った徳川家康(松下洸平)は、秀吉に先を越されたと聞いて弔い合戦を諦め、甲斐・信濃両国の制圧に乗り出しました。

天正10年(1582年)3月に武田勝頼を滅ぼしたばかり、まだ統治体制が確立されていない中で信長を喪ったため、両国は大混乱に陥っています。

例えば織田家臣の河尻秀隆は甲斐の国主に任じられていたものの、武田残党の襲撃を受けて命を落としました。

そして甲斐・信濃の支配権をめぐって相模の北条氏政・越後の上杉景勝も参戦し、三つ巴の死闘が繰り広げられます。

これが後世に伝わる天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)、やがて秀吉らの仲介で和睦することとなりますが、果たしてどのような展開を迎えるのでしょうか。もしかするとナレーションで割愛されるかもしれませんね。

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