『豊臣兄弟!』で萩原護が演じる武将・小堀正次とは?秀長・秀吉・家康が重用、“出家を重ねた実務派”の生涯 (2/3ページ)

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そんな中で手腕を奮えたのは、正次が僧侶としての経験を持っていた(学識を備え、寺社の内情を知っていた)ことが大きかったのではないでしょうか。

こうした実務面での活躍から次第に加増され、最終的には五千石まで達しています。

天正7年(1579年)には嫡男の小堀政一(まさかず。小堀遠州)が誕生、また天正11年(1583年)には次男の小堀正行(まさゆき。槍の治左衛門)が誕生しました。

他にも小堀正長(まさなが。助兵衛)・小堀正春(まさはる。仁右衛門)・小堀宗栄(むねひで)・女子2名(伊東某室、田中某室)らの子供がいます。

小一郎の死後も活躍

徳川家康(画像:Wikipedia)

やがて天正19年(1591年)に小一郎が世を去ると、羽柴秀吉(池松壮亮)の直臣として大和・紀伊そして和泉(大坂府南西部)の郡代を任されました。

やがて慶長3年(1598年)に秀吉も世を去り、豊臣政権が分裂の兆しを見せると、五大老の一人である徳川家康(松下洸平)に接近します。

そして慶長5年(1600年)に勃発した会津征伐・関ヶ原の合戦では家康率いる東軍に属し、武功により備中松山(岡山県高梁市)一万四千石を与えられました。

また備中国内の徳川家直轄領についても管理を任されており、高い政治能力と信頼の厚さがうかがえます。

徳川政権下でも活躍していましたが、慶長9年(1604年)に江戸へ参勤する道中、3月30日に相模国藤沢(神奈川県藤沢市)で急死してしまいました。享年65歳(異説あり)。

戒名は長照院殿信誉道喜大居士(ちょうしょういんでん しんよどうきだいこじ)。

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