『豊臣兄弟!』で萩原護が演じる武将・小堀正次とは?秀長・秀吉・家康が重用、“出家を重ねた実務派”の生涯
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、萩原護がキャスティングされたことで話題となっている小堀正次(こぼり まさつぐ)とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
僧侶として生きながら、還俗して豊臣秀長(小一郎)に仕え、複雑な検地を担った実務派の家臣でした。後には秀吉、徳川家康にも重用された正次は、いかにして乱世を生き抜いたのか。その生涯をたどります。
浅井家臣から豊臣兄弟に仕える舅の磯野員昌。落合芳幾「太平記英勇傳 礒野丹波守定正(磯野員昌)」
小堀正次は天文9年(1540年)、近江国坂田郡小堀村(滋賀県長浜市)で小堀正治(まさはる)の次男として誕生しました。
小堀家は藤原氏の流れをくみ、正次の6代祖先の藤原光道が小堀村へ移住して地名を苗字に称したそうです。
はじめは出家していましたが、故あって(長兄が没したか)還俗し、磯野員昌(いその かずまさ)の娘と結婚します。字は新助(しんすけ)、官途を勘解由左衛門(かげゆざゑもん)と称したそうです。
元亀2年(1571年)に員昌が織田家に降伏すると、浅井長政(中島歩)への義理立てか再び出家。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡すると再び還俗して、小一郎(仲野太賀)に仕えました。出家→還俗→出家→還俗と忙しいですね。
仕官当初は知行一千石でしたが、羽柴兄弟から政治手腕を評価されて、後に小一郎が治めることになった紀伊国(和歌山県)や大和国(奈良県)の検地代官に抜擢されています。
紀伊や大和は寺社勢力が多く、権利関係が複雑であったため、検地は困難を極めたそうです。そんな中で手腕を奮えたのは、正次が僧侶としての経験を持っていた(学識を備え、寺社の内情を知っていた)ことが大きかったのではないでしょうか。
こうした実務面での活躍から次第に加増され、最終的には五千石まで達しています。
天正7年(1579年)には嫡男の小堀政一(まさかず。小堀遠州)が誕生、また天正11年(1583年)には次男の小堀正行(まさゆき。槍の治左衛門)が誕生しました。
他にも小堀正長(まさなが。助兵衛)・小堀正春(まさはる。仁右衛門)・小堀宗栄(むねひで)・女子2名(伊東某室、田中某室)らの子供がいます。
小一郎の死後も活躍
やがて天正19年(1591年)に小一郎が世を去ると、羽柴秀吉(池松壮亮)の直臣として大和・紀伊そして和泉(大坂府南西部)の郡代を任されました。
やがて慶長3年(1598年)に秀吉も世を去り、豊臣政権が分裂の兆しを見せると、五大老の一人である徳川家康(松下洸平)に接近します。
そして慶長5年(1600年)に勃発した会津征伐・関ヶ原の合戦では家康率いる東軍に属し、武功により備中松山(岡山県高梁市)一万四千石を与えられました。
また備中国内の徳川家直轄領についても管理を任されており、高い政治能力と信頼の厚さがうかがえます。
徳川政権下でも活躍していましたが、慶長9年(1604年)に江戸へ参勤する道中、3月30日に相模国藤沢(神奈川県藤沢市)で急死してしまいました。享年65歳(異説あり)。
戒名は長照院殿信誉道喜大居士(ちょうしょういんでん しんよどうきだいこじ)。墓所は光明寺(神奈川県鎌倉市)にあり、400年以上の歳月を越えて静かに眠っています。
終わりに
近江の浅井家旧臣の出身で、秀長に仕える。秀長が治める紀伊や大和の検地を行うなど、行政官として手腕を振るう。
※NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。
今回は政治能力を発揮して小一郎・秀吉・家康から高く評価された小堀正次について、その生涯をたどってきました。実はもう小一郎に仕えていたのですね。今までどこにいたのでしょうか。
果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、どんな活躍を魅せてくれるのか、萩原護の好演が楽しみです!
※参考文献:
菊地浩之『増補新版 豊臣家臣団の系図』角川新書、2025年11月 『大日本人名辞書 上巻 新版』国立国会図書館デジタルコレクション日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan