村上水軍を率いた戦国武将!幼い弟を支え、共に海へ散った得居通幸の波乱に満ちた生涯 (2/4ページ)

Japaaan

ただし永禄10年(1567年)に父の通康が亡くなり、通総が家督を継いだのはわずか7歳と幼かったため、通幸が弟を補佐したと言います。

とは言え通幸も当時まだ11歳ですから、実際には家臣たちが政務を取り仕切っていたのでしょう。

成長した通幸は伊予国の戦国大名である河野通宣(こうの みちのぶ)・河野通直(みちなお)に仕え、天正6~8年(1578~1580年)ごろに鹿島城主となりました。

鹿島城は伊予国北条沖の鹿島(愛媛県松山市)に築かれており、海上警備所のような性質を有していたようです。

通幸は家臣たちをことごとく鹿島へ渡らせ、瀬戸内海の警備に眼を光らせていました。

河野・毛利の猛攻撃を耐え抜く

鹿島城に立て籠もり、徹底抗戦(イメージ)

しかし天正10年(1582年)4月、中国攻略に当たっていた羽柴秀吉の調略によって、弟で来島村上氏の当主であった通総とともに河野氏から織田信長へ鞍替えします。

この裏切りに憤った家老の村上吉継(よしつぐ)・村上吉郷(よしさと)らは来島村上氏から離反し、河野氏そして毛利氏とともに来島村上氏を攻め立てました。

能島(のしま)村上氏の村上武吉(たけよし)・村上元吉(もとよし)が尖兵となって猛攻撃を加えますが、通総はこれを1年近く持ちこたえます。

しかし天正11年(1583年)3月になるとついに通総が敗走して秀吉の元へ駆け込み、攻撃の矛先が通幸へ向けられるようになりました。

通幸は孤立無援の中で懸命に防戦し、約半年が過ぎた8月になると、攻撃がやんだようです。

「村上水軍を率いた戦国武将!幼い弟を支え、共に海へ散った得居通幸の波乱に満ちた生涯」のページです。デイリーニュースオンラインは、河野通直河野通宣来島通総来島通康村上武吉カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る