村上水軍を率いた戦国武将!幼い弟を支え、共に海へ散った得居通幸の波乱に満ちた生涯 (3/4ページ)

Japaaan

降伏や逃亡した記録はないため、通幸が鹿島城を守り抜いたと考えてよいでしょう。能島村上氏・河野氏・毛利氏ら連合軍を相手に戦い抜いた通幸の大殊勲と言えます。

秀吉の水軍衆として活躍

秀吉の水軍を率いて活躍(イメージ)

その後は毛利氏と秀吉が和睦したことで通幸は本領を安堵され、また通総も帰国が実現しました。

天正13年(1586年)8月に羽柴秀長が総大将となって四国征伐に乗り出すと、通幸らはかつての敵であった毛利氏の小早川隆景・吉川元長(きっかわ もとなが)らを先導して伊予方面から攻め込みます。

そして凱旋後の論功行賞では主君の通総に1万4千石、通幸は3千石が与えられました。

その後は秀吉の船手衆(水軍衆)に組み込まれ、九州征伐や小田原征伐に参陣して、秀吉の天下一統を見届けることになります。

しかし文禄の役(第一次朝鮮征伐)において、李氏朝鮮水軍との合戦で討ち死にしてしまいました。時に文禄3年(1594年)1~2月、享年38歳でした。

通幸には男児がいなかったため、その遺領は弟の通総が相続したそうです。その通総も慶長2年(1597年)に同じく朝鮮水軍との合戦で討死しています。

終わりに

今回は瀬戸内海で水軍衆を率いて活躍した得居通幸について、その生涯をたどってきました。

幼少期から助け合って生き抜いてきた兄弟が、海の上で戦いに果てていく最期は、実に胸が熱くなるものです。

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