【豊臣兄弟!】2度の改易から復活した武将・多賀秀種とは?豊臣秀長に仕えた半年間と波乱の生涯 (2/4ページ)
天正8年(1580年)に同じく織田家臣の多賀貞能(さだよし)に婿入りし、多賀秀種と名乗るようになりました。
しかし天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発すると、舅の貞能が明智光秀(要潤)に加担したため、秀種ともども改易(所領を全没収)されてしまいます。
仕方なく兄の堀秀政(ひでまさ)に仕え、二千石の知行を与えられました。
その後は羽柴家臣(陪臣)として天正12年(1584年)に小牧・長久手の合戦に参陣、天正13年(1585年)に秀政の越前転封に従って四千五百石に加増されます。
天正14年(1586年)には八千石に加増され、天正16年(1588年)には従五位下(じゅごいのげ)・出雲守(いずものかみ)に叙せられました。
兄の急死で小一郎に仕える
そんな秀種が小一郎に仕えたのは天正18年(1590年)、小田原征伐でのことです。
小田原城の包囲作戦中に兄の秀政が病没したため、秀種は急遽小一郎の部隊に組み込まれました。
戦後はそのまま小一郎の与力となり、大和国宇陀松山城(奈良県宇陀市)を任されたのです。
間もなく小一郎が世を去ると、後を継いだ婿養子の羽柴秀保(ひでやす)に仕え、その秀保も若くして亡くなると、秀種は秀吉の直臣となりました。
文禄3年(1594年)には伏見城の普請を担当し、文禄4年(1595年)には大和国宇陀郡二万石の大名となります。