「応仁の乱」はまだ甘かった…?本当の“戦国時代の始まり”とされる「明応の政変」という転換点 (2/5ページ)
将軍である義材は積極的に行動し、前将軍の義尚が倒せなかった近江の賊軍を討ちました。さらに一四九三年二月には、河内の畠山政長を助けるため自ら出陣しています。
ここで京都をあずかったのが細川政元でした。義材が京都を離れている間に、政元は亡き義政の妻だった日野富子とひそかに協議を進めたのです。
富子は藤原北家につながる名門の日野家の出身でした。足利義満以後、日野家の娘が将軍の妻となることが慣例となっており、富子自身も義尚の母として政務や財政に深く関わっていました。
政元と富子が警戒したのは、義材が政治の主導権を強め、自分たちが政局から外されることです。義材が河内へ出陣する前から、すでに計画が進んでいた可能性もあります。
クーデターの実行政元が次の将軍候補として選んだのは、八代将軍・義政の弟である足利政知の次男でした。すでに出家して清晃と名乗り、天竜寺の僧となっていた人物です。
ちなみに義材の父である義視も義政の弟でした。つまり義政、義視、政知は、ともに六代将軍義教を父とする兄弟だったのです。
政知は堀越公方を務めていました。堀越は現在の静岡県伊豆の国市にあたり、足利幕府の関東における拠点でした。
そして一四九三年四月、細川政元は清晃を擁立して義材に反旗をひるがえします。クーデターが勃発したのです。これは成功し、義材は降伏することになりました。
清晃は還俗して義高と名乗り、一四九四年に十一代将軍となります。その後、一五〇二年には義澄へ改名したため、史料では十一代将軍を足利義澄と記す場合があります。