【豊臣兄弟!】信長の葬儀「秀吉vsお市」の真相!秀吉より先に行われた“本当の法要”の謎 (3/8ページ)

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ただし、長男の織田信忠の最期に関しては、信忠自身が家臣の鎌田新介「自分の遺体は縁側の板を引き剥がして、そこに隠すように」と命じ、その後は建物ごと崩れ落ちたという、詳しい記述があるのが興味深いところです。

さらに、山科言経の『言経卿記』も吉田兼見の『兼見卿記』も信長の遺体に関しては触れていないようです。

また、ルイス・フロイス『日本史』では、全て灰となり何も残らなかったとか。

『林鐘談』には、瓜の紋の付いた焼けた小袖を信長の遺体にしたとあるなど、史料によって記述はさまざまです。

信長と森乱、最期の別れとなった炎に包まれた本能寺。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

秀吉プロデュースの豪華絢爛な信長の葬儀

実際、6月2日に信長が亡くなって以降、なかなか葬儀は行われませんでした。

信長の葬儀として一般的にイメージが強いのは、10月15日に秀吉がプロデュースして京都の大徳寺で行われた葬儀でしょう。(大徳寺で行われた追善供養自体は11日〜17日間)

たとえば、秀吉の右筆、大村由己が記した『惟任退治記』には、秀吉が取り仕切った信長の葬儀について非常に興味深い、以下のような描写があります。

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