『逃げ上手の若君』時行のライバルで共闘者?足利尊氏との戦いに全てを捧げた諏訪頼継の生涯【前編】 (4/5ページ)

鎌倉の奪還は、建武政権の崩壊と足利尊氏の台頭に繋がった(写真は鶴岡八幡宮)。
潜伏生活の末の挙兵!そして信濃権守への就任頼継と北条時行の潜伏期間、京の中央政府でも異変が生じていました。
建武政権から離反した足利尊氏が西上して京を制圧。のちに北朝と呼ばれる光厳天皇を擁立しました。
後醍醐天皇は京を脱出して吉野で朝廷を樹立。ここに南北朝時代が到来することとなります。
全国の武士たちは南北それぞれの朝廷に付いて衝突。方々で戦端が開かれる時代となりました。
このとき、頼継は自身の仇である足利尊氏を敵視していたと伝わります。
興国元年/暦応3(1340)年6月24日、頼継は北条時行とともに信濃国伊那郡の大徳王寺城で兵を挙げました。
頼継と時行は、信濃国守護・小笠原貞宗と対峙。頼継と時行は緒戦は勝利したものの、少しずつ兵を失っていきます。
10月23日、立て籠っていた大徳王寺城が陥落。これ以降、頼継は諏訪へと帰還したとされています。
その後も、頼継は諏訪氏復権に向けて動きを続けていました。
興国7年/貞和3(1347)年9月、頼継が朝廷(北朝側と見られる)に信濃守(国司)任命を希望していた記録が残っています。
これは自身や時行と近い南朝一辺倒の関係構築だけではなく、北朝からも信濃支配を認めさせようとしていたようです。
朝廷側が出してきた答えは「信濃権守」という官職。これは権官という定員外の任命でした。これに対して、頼継は改めて正式な「信濃守」への任官を求めます。